思考の自由さと表現の狭さと

アメリカで仕事をしていて、非常に重要な会議などは通訳の人に同席してもらってしっかりと話をするんだが、どうしても通訳の人の都合が合わず、自分の児戯に等しい英語で仕事を進めなくちゃならないシーンが多くある。
そこで思うのは、考えを伝えることが出来ないと言うことは、相手にとってみたら考えていないことと同義であるのではないかと言うこと。
日本語で思考し、疑問に思ったことを尋ねる時、日本語から英語への変換でいくつものエラーが重なる。
異なる言語は1対1ではない上に、訳した言葉のイメージも異なる。
両方のイメージを知らない僕にしてみれば、話せば話すほど誤差は広がるのだ。
もちろん、しっかり言葉のキャッチボールを行えば行うほど、お互いの認識は合っていくのだが、異なる言語を持つもの同士で会話をして、お互いに納得の行く落とし所を作ることは決して容易ではない。

「ほう、表現の自由は思想の自由よりも幅が狭いと言うわけですか」と言うのは銀河英雄伝説での言葉だが、一つの言語でもそうなのだから、一つの思想を異なる言語に置き換えた時にはもっともっと幅が狭くなる。
ありていに言えば「言いたいことが言えない」だが、こと英会話に関して言えば、そこに含まれる意味合いはもっと深い。

人の怒りをいつの間にか受け流せるようになっていた

いつしか僕は気付いていた。「人は、本当のことを言われると怒る」と言うことに。
あるいは、理不尽に怒っている人は、同意しながら話を聞いてあげるだけで収まると言うことに。
悪いことをしていないのに、殺されるような目に遭うことなんてほとんどない。
よっぽど性格の相性が悪いこともあるだろうけど、そういう理屈でないことこそ、早めに察知して危うきに近寄らないほうが良い。

21歳頃くらいの時、「君は何が起きても動じないね」と言われたことがある。
これは今でも続いており、どんなトラブルでも、むしろトラブルでこそ思考が怜悧になる実感がある。
今現在、SEとして働いている日々だが、トラブルシューティングは好きである。
誰かが「問題だ!」と騒ぎ立てて怒り狂っている。
そんな状況を目にして僕が思うことは、ただひとつ。「何故そう思うに至ったのか?」
何故それが起きたか、ではない。誰かが何故そう思うのか、そこに興味がある。
あらゆる問題は、そう認識しないと問題ではない。
たったひとりの交差点で赤信号を見ても危険であると言う認識は生まれない。
多数の人が同じ解釈を持つからこそ、赤信号は危険を示すものだと言う認識が生まれる。
問題も同じだ。ソフトウェアの予期しない挙動、さらにそれがほとんどのユーザの想定していない挙動であるからこそ問題だと騒ぎ立てられる。

「何が起きたか」は問題ではない。
「何故そう思うか?」が問題だ。

言語は思考を規定する。
どういう言語がその思考を導いたのか。
それが何より肝要だ。
だからこそ、会話が何より尊ばれるのだ。

日本人がバカンスを取れないのは祝日が多すぎるから

blogos.com

今僕は1ヶ月超のアメリカ出張中で、ちょうど夏のバカンスを取る人が多くなってきたところである。
ちょうどこの辺の話をいろんな人としている時にこの記事を読んだので、タイムリーだったので投稿せざるを得ない気持ちになった。

結論はタイトルの通り。
アメリカ人に聞いてみると、公式に定められた連休と言う連休はあまりない。独立記念日とクリスマスくらいのもんで、サンクスギビングデーとかレイバーデーとか色々あるけど、別に国が定めた休日じゃないとのこと。祝日も、日本ほどそんなに頻繁にあるわけじゃない。
でも有給休暇は、労働者の権利として確固たる地位を築いており、彼らはもちろん権利は行使する。

換言すれば、自分で休みを取らねばならない環境が整っていると言うこと。国単位で定められた祝日が頻繁にない故に、自分の有給休暇をどう取るかは個人任せ。当然まとまって休みを取って家族との時間や自分の趣味にしっかり時間を費やす。人生のプライオリティを仕事においていなければ、非常に合理的な話である。

一方日本では、非常に祝日が多い。もっと休め!と言わんばかりの祝日の多さで、いろんな祝日の話をしたら、アメリカ人が「日本は祝日とか連休とか多すぎるだろ」とか言ってくる始末。
そこでハッとしたが、日本は祝日が多いゆえ、自分たちの有給休暇を使いにくい状況が生まれているのだ。逆説的だが、割りとあると思う。
連休があった上で、さらに有給休暇を重ねることが出来るだろうか?せいぜい出来て1~2日だろう。それも合わせれば1週間くらいにはなってる。
だから、日本人がよく「欧米は1週間とかバケーション取ってていいなあ」とか言ってるけど、客観的に見りゃ日本人も「日本人はいいなあ、国としての休みが多くて」とか思われてる。

日本政府は有給休暇取得率を高めさせたいみたいで、その一方で「山の日」なんて言う新たな祝日を作ったりしてるわけだけど、アメリカの事情を聞いて思った限りでは、そうした政策が既に裏目に出ていると思う次第だ。

一斉に休める日を多くしてしまえば、それだけ個人としての休みを取る機会は失われる。
個人としての休みを尊重するなら、国としての祝日はもっと少なくていい。

Sphinxでinclude出来なくて詰まった件

.. include:: ../hogehoge

と言うように普通に書いてるのに、hogehogeが何故かincludeされない!何故だ!
1時間ほど色々やってみた結果、hogehogeファイルがSJISエンコードだった…大元のファイルはUTF-8
hogehogeファイルをUTF-8で保存し直したらうまくいった。
Windows機ならではのような現象…クソウ…こんなあるある…悔しいからメモしておく。

多様性は差別的思想を駆逐する

アメリカにいてて感じることは、とにかくフラットであること。
年齢・人種・背格好・服装・話し方・振る舞い…もちろん、文化的に、「こういうのがベター」とされるものはあるだろうけど、それを差し引いたとしても、フラットである部分が多い。
「アメリカは差別を感じる国だと思っていた」というのは結構よく聞く事なんだが、そう感じることは全くない。
もちろん自分の観測範囲なのでたかが知れているが。

思うに、過去に差別にまみれ、差別に苦しんだ歴史があるからこそ、差別をタブー視するような社会になりつつあるのではないだろうか?
日本でも、昔の差別のことはタブー視されていることが多々ある。僕が子供の頃は部落などの話は時々聞いていたが、今はほとんど聞かない。これはタブー視された結果、地域による差はフラット化されたものだと考える。

日本は多様性がない。だからこそ、差は如実に現れ、すぐに一線が引かれてしまう。
いずれ日本も移民…と言う言い方はあまり好きじゃないが、好きで日本に移住してくる外国人が増えていくことだろう。賛成とか否定とかそういうもんではなく、事実として増えていくだろう。
極端な話、純日本人がマイノリティになった社会において、差別がまだ残っているかというと、残っていると思うが、それは純日本人による選民思想的な何かでしかないと思う。

畢竟、差別的思想というのは、多様性の前では鎧袖一触である。

上司が進捗率を出せとうるさいからExcelのタブの色で総計と完了率を出すようにした

とあるシステムのデータ移行をやっているのだが、上司は全部で90近くあるテーブルの進捗率を知りたいらしい。
データ移行の大元はExcelで、ここに記載されたデータがSQLServerへ最終的には移行される。
Excelファイルは複数あり、その中に、各テーブル単位でシートが存在する。
終わったシートを色で管理しているが、上司はどうもすぐに数値を知りたいらしく、僕はそのたびに全部のExcelを開くのも馬鹿らしいので、管理好きな上司のためについカッとなってスクリプトを書いた。これで、いつ言われても1分以内に回答出来る。

import openpyxl as px
import glob,os

FileCount = 0
CompleteCount = 0

for r in glob.glob('*.xlsx'):
    fname = os.path.basename(r)

    wb = px.load_workbook(fname)

    print(fname)

    for s in wb.worksheets:
        FileCount += 1
        if s.sheet_properties.tabColor is not None:
            CompleteCount += 1
            print("\t"+s.title+":[Complete]")
        else:
            print("\t"+s.title)

print(str(CompleteCount) + "/" + str(FileCount) + " = " + str(round((CompleteCount/FileCount)*100,2)) + "% is completed")

時間の切り売りの中で

安定したパフォーマンスを出すためには、習慣というのが大事だと思う。
毎日のタイムスケジュールを明確に描くことが出来、あるいはコントロールすることが出来ている人は、とても尊敬する。

例えば、今日の僕のスケジュールについて考えてみよう。
僕は今アメリカに出張中で、今日は休日である。
朝8時から駐在員の方たちとお出かけし、夕方にホテルに帰ってきた。
そこから自由の時間が出来ると思いきや、他の出張者の方が、晩ご飯を食べようと誘ってきた。
当然僕の立場としては断れるわけがないので受諾するしかないわけだ。

ここで考えよう。

16時半に戻ってきて、18時半にホテルロビーに集合となった。
つまり、丸々2時間の自由時間が出来る。逆に、2時間の中途半端な時間しか出来ない。

海外ドラマを見るか?
仕事をするか?
勉強するか?
ネットサーフィンをするか?

僕には選択肢がある。
だが、それは自由な選択肢だが、限られた時間である。1時間50分もすればお出かけモードにならねばならない。

本当に有能な人なら、こうした僅かな時間も無駄にせず、何らかのことをするのだろう。
でも僕は有能でもなんでもない。何かに集中できるようになり、打ち込み始めた時にすぐに出かけなければならないような時間は、僕の中では自由な時間とは呼べない。
僕が考える自由な時間というのは、始まりも終わりも自由に設定できる時間のことである。

始まりも終わりもコントロール出来ない時間など、僕にとっては中途半端な時間でしかない。
少しでも休養を取りたい。リラックスした時間を得たい。

自分の時間は切り売りされていると感じる。