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盲信と検索

「これは間違いない!」と思うことほど、検索することから遠ざかる。

盲信は盲目的確信であり、自信を裏付ける検索という行為に対して背信的とも言える。

自分の知識や常識が検索結果によって覆されるシーンは多々あるが、検索しなければ自信の世界は保たれる。

もちろん、だからこそ、疑いを持つことは大切なのだ。自分の常識を疑うこと、自分の確信に待ったをかけること。確信は停滞である、とも言える。

けれど、他人は否定するが自分が信じてやまないことが案外真実だったということも、当然ある。科学史などは特にそういう傾向が強く、実験と論証と盲信の繰り返しである。

そうした事象は、なんらかのブレイクスルーであり、今まで積み上げてきたことが根底から瓦解する。ありていに言えば「世界が変わる」。

さて、検索結果で確信を得ようとしている現在、その確信が盲信でない証拠があるだろうか?
400年前にGoogleがあったとして、「地球 回っている 証拠」などと検索しても、出るのは天動説を支持する記事ばかりだろう。

遠い未来に、過ちだった過去だとわかる今を生きている僕らにとって、絶対的真実なんていうものが数学以外ないということが唯一言えることであろう。

排他的なおもてなしという矛盾

訪日外国人、在日外国人が増えるにつれ、「おもてなしの心」と「英語を勉強しなくてはやってられない」ことは両立せざるを得なくなる。

日本が好きな日本人として、外国人に対して日本のおもてなしを感じ取ってもらうためには、日本語だけでは到底やっていけない。

もし、「日本に来るんだったら日本語勉強してきやがれバーロー」と言う人が大半であれば、その日本が好きな選民的・排他的な国民性により、日本は世界で劣勢に追いやられることだろう。
どうして、日本のおもてなしの心を他者に向けることをせずに、おもてなしの真髄を保ち続けることが出来るだろうか?

排他的でありながら、他者に対しておもてなしの心を発揮することは、論理的に矛盾する。
おもてなしの対象を日本語の話せる日本人に限っているのなら、それはおもてなしではなく、単なる同族意識の親切に過ぎない。

もし、「日本人以外にもおもてなしをしなくては、日本の良き文化を保たなくては」と思う人が多ければ、日本は今後も安泰だ。
英語教育も変わり、皆が英語を話すことに積極的になり、海外への進出だって捗っていくことだろう。

駅員に問い合わせをして必死にお互いにコミュニケーションしようとしている朝の一幕を見て、そんなことを考えた。

ロボットの未来

レシピとして表せるものであれば、ロボットによる代替が可能。
単純作業を行うだけのロボットには、新たなレシピを生み出すことは出来ない。
よって、人間の凡そ知的な生活の営みの一部として、レシピ考案はロボットに置き換えられることはないというのが今までの論。

翻って今を見れば、人工知能が発達すれば、様々な材料から適切なレシピが生み出されるようになるかも知れない。
知的創造も、ロボットの脳で可能であることが実現されつつある。

ただし、ロボットにはそれが美味しいのかどうかの判断が出来ない。
濃い味が好き、辛いのが好き、そういった嗜好は人間の多様性に根差すものであるが故、人工知能に出来ることは最大公約数の味を統計によって学習することと、ロボットの所有者の好みに合わせてカスタマイズされたレシピを作ることが臨界である。

最大公約数としての知的創造が行えるようになるのが、人工知能の第一段階。
ロボットがコモディティ化し、「個人所有」と言うことが可能になる未来から、人工知能の多様性対応が始まる。

人間の能力のアウトソーシング
それが技術史の本質と僕は思う。
決断すらもアウトソーシングした果てに残るは感覚と知覚。人間を人間たらしめているのは、思考の多様性ではなく感覚の多様性だと信じて…

仕事に押しつぶされそうな時の妄想マインドセット

組織活動を戦争、会社で行われる打ち合わせを戦場に見立てれば、歴史上の素晴らしき英雄たちの優れた戦略を取り入れて考えることが大変役立つ。

打ち合わせで行うプレゼンや、華やかな資料など、その場を統べるための戦術的としては確かに有効なのだろうが、それを用意せねばならなかった時点で、戦略的には敗北している。

ところで、仕事上発生するタスクというのは、一つ一つ片付けないといけないものである。誰がどうやるにせよ、それ以外の定義は有り得ない。また、そのタスクの積み重ねが、戦況を左右するようなことにもなる。いわばタスクの解消は、兵站の安定供給である。だが、兵站と異なるのは、「無くしても問題がない場合がある」ということだろう。

我々一介の平社員として、タスクに対する対応方法は

  • 実施する
  • 実施しなくてもいいようにする
  • 誰かに委譲する

の3つがある。

実施する

これは最悪の選択だ。何故なら、仕事をやらなければならないのだから。ワーカホリックは別として、最小の仕事で最大の成果が上がることを最上と仮定した場合、仕事をするというのは最悪の選択肢である。それは「戦場に赴いて敵を一人でも多く撃つ」ことと同義である。

実施しなくてもいいようにする

戦略的にはこれが最上だ。やらなければならないことをやらなくていいようにする方法があるなら、迷わずそれを選択するべきだ。

誰かに委譲する

これは自分がやらずに済むと言う点では及第点、自分が出来るor出来ない仕事を他に振って他者の力を強めるという組織的な意味では良い選択だろう。
だが、「命令に対する責任は、実行したものではなく、常に命令した者にある」という原則に則って考えれば、逃げの一手というわけではないので、勘違いしないようにしなくてはならない。

さて、上記の通り、「実施しなくてもいいようにする」が最高の方法であることは疑いがない。

では、その方法とは?

  • タスクを終わらせたところで何も変わらないことを証明する

管理によくあることだ。例えば、進捗管理資料の頻繁な更新。「誰が何のために見て、どういう成果が発生するのか」。管理職が見てそれだけで終わるようでは、進捗資料の定量的な意味合いはない。もし自分たちの職場の進捗資料が、見せてそれだけで終わるような、着地点の存在しない類の資料であるならば、それに費やす時間は限りなく短くすべきだろう。(進捗資料の更新をやめろとは言わない。組織運営上、逆らえない事情もあるだろう)

話はそれるが、日本のキャリアパスを辿って、ピーターの法則に従って昇進してきた管理職の殆どは、「管理の成果」を最終的な結果とみなし、途中の「部下に報告させることによって発生する成果」を重視しない。

  • タスクを無為なものにする

戦略において、戦わずして敵を無効化してしまうことほど、効果の高い戦闘方法は存在しない。
例えば、2日間かけてプログラムを作るタスクがあったとしよう。
そのタスクを無為なものにする方法を考える。
そのプログラムは誰が使うのか?
そのプログラムは何のために使われるのか?
仮に、そのプログラムが進捗資料の自動更新を行えるプログラムで、管理職が週一回使用する予定であるとしよう。

これを無為にするには

  • 管理職が進捗を確認する意義をなくす
  • 進捗資料の意味をなくす(形骸化)

これは同じことを示している。
つまり、「進捗資料を用いて報告してるけど、オフィシャルに出来ない話がたくさんあって、資料に落とせないから口頭で言うようにしますね」とか、「忙しくて進捗資料を精度が悪くて、個別でケアしないといけない」とか、つまり、何かに理由をつけて、進捗資料それ自体が意味のないものにしてしまう。

会議のベースになる資料が信用ならないものであるなら、何を信用すべきか?対話である。チーム内での報告と、役員への説明資料は性質が異なる。管理職が対話することを怠ることを正当化するための進捗資料更新など、悪以外の何者でもない。

タスクがあまりに多くて押しつぶされてしまいそうになることがあるが、「実施しない」と言う選択肢が常に最上であることを念頭においておきたい。
とは言え、あまりにそればかり考えてるとただの屁理屈野郎と思われる危険性もあるので、バランスが大事だ。
自分の戦略が奏功するかどうかは、まずは信用されることが前提になるのだから。考えても実行に移せない状況は、それだけで敗北だ。

アイデアを盗むと言うことの危険性

まだ現実になっていないことのアイデアを他人から盗むことの恐ろしさは、そのアイデアが形になっていないことに起因する。
形になっていないアイデアというのはつまり、未来のことである。
そういう、他人の考える未来を盗むと言うことは、それが必ず実を結ぶとは限らないことを意味する。
そのアイデアを最初に思いついた人は、アイデアと共に必ず未来を思い描いている。だから、アイデアだけを奪ったところで、その最初の人の思い描いた未来が必ず来るとは限らない。

例えば、僕にはとあるアイデアがある。たぶん、今はまだ現実になっていないアイデアだ。
それを考えると、僕の頭の中では未来予想図が妄想される。

さて、そのアイデアを君が盗んだとしよう。うまくカネになる方法を見つけ、君は成功する。
その結果訪れた未来は、果たして君にとって良い未来か?
僕が思い描いた未来と同じか?
君はそのアイデアの有用性を知りながら、変質する世界を持て余すことになるのではないだろうか?
それはそうだろう。僕が思い描いた世界と、君が作り上げた世界が同一であるわけがないのだから。

イデアを盗む時は、必ずその世界観と一緒に盗まねばならない。でなければ、アイデアは世界に馴染まず、持て余すことになり、破綻する。
世界観とは哲学である。アイデアを公表する際には、哲学を学んでから公表することをお勧めする。
そうすればまるでアイデアが公開鍵、哲学が秘密鍵となるように、アイデアだけ取られたところでその世界観は漏れることはない。

思考の自由さと表現の狭さと

アメリカで仕事をしていて、非常に重要な会議などは通訳の人に同席してもらってしっかりと話をするんだが、どうしても通訳の人の都合が合わず、自分の児戯に等しい英語で仕事を進めなくちゃならないシーンが多くある。
そこで思うのは、考えを伝えることが出来ないと言うことは、相手にとってみたら考えていないことと同義であるのではないかと言うこと。
日本語で思考し、疑問に思ったことを尋ねる時、日本語から英語への変換でいくつものエラーが重なる。
異なる言語は1対1ではない上に、訳した言葉のイメージも異なる。
両方のイメージを知らない僕にしてみれば、話せば話すほど誤差は広がるのだ。
もちろん、しっかり言葉のキャッチボールを行えば行うほど、お互いの認識は合っていくのだが、異なる言語を持つもの同士で会話をして、お互いに納得の行く落とし所を作ることは決して容易ではない。

「ほう、表現の自由は思想の自由よりも幅が狭いと言うわけですか」と言うのは銀河英雄伝説での言葉だが、一つの言語でもそうなのだから、一つの思想を異なる言語に置き換えた時にはもっともっと幅が狭くなる。
ありていに言えば「言いたいことが言えない」だが、こと英会話に関して言えば、そこに含まれる意味合いはもっと深い。

人の怒りをいつの間にか受け流せるようになっていた

いつしか僕は気付いていた。「人は、本当のことを言われると怒る」と言うことに。
あるいは、理不尽に怒っている人は、同意しながら話を聞いてあげるだけで収まると言うことに。
悪いことをしていないのに、殺されるような目に遭うことなんてほとんどない。
よっぽど性格の相性が悪いこともあるだろうけど、そういう理屈でないことこそ、早めに察知して危うきに近寄らないほうが良い。

21歳頃くらいの時、「君は何が起きても動じないね」と言われたことがある。
これは今でも続いており、どんなトラブルでも、むしろトラブルでこそ思考が怜悧になる実感がある。
今現在、SEとして働いている日々だが、トラブルシューティングは好きである。
誰かが「問題だ!」と騒ぎ立てて怒り狂っている。
そんな状況を目にして僕が思うことは、ただひとつ。「何故そう思うに至ったのか?」
何故それが起きたか、ではない。誰かが何故そう思うのか、そこに興味がある。
あらゆる問題は、そう認識しないと問題ではない。
たったひとりの交差点で赤信号を見ても危険であると言う認識は生まれない。
多数の人が同じ解釈を持つからこそ、赤信号は危険を示すものだと言う認識が生まれる。
問題も同じだ。ソフトウェアの予期しない挙動、さらにそれがほとんどのユーザの想定していない挙動であるからこそ問題だと騒ぎ立てられる。

「何が起きたか」は問題ではない。
「何故そう思うか?」が問題だ。

言語は思考を規定する。
どういう言語がその思考を導いたのか。
それが何より肝要だ。
だからこそ、会話が何より尊ばれるのだ。