労働者たちへ。

機運は高まった。
電通の新入社員の女性の過労死は痛ましいばかりで、ご冥福を心よりお祈りする。
あんなことが起きてしまったご遺族の心象を思うと、言葉もない。もし僕の子供が大きくなって、こんなことになれば、僕は何が何でもその会社が倒産させて、復讐するだろう。自身の子供の命というのは、自分の命を犠牲にするほど、大切なのだ。だからこそ、こんな事件は許してはならない。もちろん、この事件が氷山の一角にすぎないことは承知している。

だが、だからこそ、氷山の一角が報道されたこの機を、逃してはならない。

僕ら弱気労働者に出来ることは、ただ犠牲者の冥福を祈ることばかりではない。今こそ、反撃だ。

よく考えてもみろ。この殺人の意味することを。僕らは誰もが犠牲者になりえる。
もし、君たちの上司が厳格で、暴力的で、ブラック企業を体現しているような人物であれば、その人は殺人者となり得ると言うことだ。もちろん、犠牲者は君かもしれないし、仲良くしている同僚かもしれない。

時々ネットで見かける、「もう長時間労働はやめよう」と言う言葉。

違う。今言う言葉はそうじゃない。今、我々が言うべきは、「また今月も長時間労働になりそうだなあ~~~」だ。

記憶が新しいうちに、それを聞いている人が、自分の部下や同僚も犠牲者になるかも知れないと思わせろ。

これを機に長時間労働を無理に止めることなんてするな。今こそ攻勢に出るときだ。
君の長時間労働が経営者を青ざめることが出来る貴重なこの時期に、何故長時間労働をしなくてはならないのか、長時間労働が何故なくならないのか、頭がハゲるほど考えさせてやれ。

人事権を持つ人物に聞こえるよう、大きい声で言え。
政府も働き方改革だかなんだかで、労働市場にメスを入れている昨今、自分の同僚が長時間労働をすることに対して何も思わないはずがない。

君が本当に長時間労働をなくしたいと心から思っているなら、君が自主的にストップすることが唯一の方法ではない。
むしろ君一人が抗ったところで、システムが変わらなければ、君の時間を少し止めることにしかならない。

本当の抵抗とは、我々弱き労働者の団結をもって、上層部に長時間労働抑制の仕組みを作らせることだ。

もし、「長時間労働がなくなればうちの会社は危ないよ!」なんて言おうもんなら、君は嘲笑していい。
君が自分を犠牲にして、献身的に長時間労働をしてきた会社は、その程度のものなのだ。見限れ。

もし、今回の事件に対して何も思わない会社であれば、それこそ何の後悔も抱く必要もない。見限れ。

君はほんのちっぽけな労働者かもしれないが、守るものがあるなら、今こそ戦え。

僕のこのネットの片隅での呟きが、誰かに届いて勇気となることを願っている。

スマホと人工知能

スマホ人工知能はもの凄く相性が良いと思う。

盲信と検索

「これは間違いない!」と思うことほど、検索することから遠ざかる。

盲信は盲目的確信であり、自信を裏付ける検索という行為に対して背信的とも言える。

自分の知識や常識が検索結果によって覆されるシーンは多々あるが、検索しなければ自信の世界は保たれる。

もちろん、だからこそ、疑いを持つことは大切なのだ。自分の常識を疑うこと、自分の確信に待ったをかけること。確信は停滞である、とも言える。

けれど、他人は否定するが自分が信じてやまないことが案外真実だったということも、当然ある。科学史などは特にそういう傾向が強く、実験と論証と盲信の繰り返しである。

そうした事象は、なんらかのブレイクスルーであり、今まで積み上げてきたことが根底から瓦解する。ありていに言えば「世界が変わる」。

さて、検索結果で確信を得ようとしている現在、その確信が盲信でない証拠があるだろうか?
400年前にGoogleがあったとして、「地球 回っている 証拠」などと検索しても、出るのは天動説を支持する記事ばかりだろう。

遠い未来に、過ちだった過去だとわかる今を生きている僕らにとって、絶対的真実なんていうものが数学以外ないということが唯一言えることであろう。

排他的なおもてなしという矛盾

訪日外国人、在日外国人が増えるにつれ、「おもてなしの心」と「英語を勉強しなくてはやってられない」ことは両立せざるを得なくなる。

日本が好きな日本人として、外国人に対して日本のおもてなしを感じ取ってもらうためには、日本語だけでは到底やっていけない。

もし、「日本に来るんだったら日本語勉強してきやがれバーロー」と言う人が大半であれば、その日本が好きな選民的・排他的な国民性により、日本は世界で劣勢に追いやられることだろう。
どうして、日本のおもてなしの心を他者に向けることをせずに、おもてなしの真髄を保ち続けることが出来るだろうか?

排他的でありながら、他者に対しておもてなしの心を発揮することは、論理的に矛盾する。
おもてなしの対象を日本語の話せる日本人に限っているのなら、それはおもてなしではなく、単なる同族意識の親切に過ぎない。

もし、「日本人以外にもおもてなしをしなくては、日本の良き文化を保たなくては」と思う人が多ければ、日本は今後も安泰だ。
英語教育も変わり、皆が英語を話すことに積極的になり、海外への進出だって捗っていくことだろう。

駅員に問い合わせをして必死にお互いにコミュニケーションしようとしている朝の一幕を見て、そんなことを考えた。

ロボットの未来

レシピとして表せるものであれば、ロボットによる代替が可能。
単純作業を行うだけのロボットには、新たなレシピを生み出すことは出来ない。
よって、人間の凡そ知的な生活の営みの一部として、レシピ考案はロボットに置き換えられることはないというのが今までの論。

翻って今を見れば、人工知能が発達すれば、様々な材料から適切なレシピが生み出されるようになるかも知れない。
知的創造も、ロボットの脳で可能であることが実現されつつある。

ただし、ロボットにはそれが美味しいのかどうかの判断が出来ない。
濃い味が好き、辛いのが好き、そういった嗜好は人間の多様性に根差すものであるが故、人工知能に出来ることは最大公約数の味を統計によって学習することと、ロボットの所有者の好みに合わせてカスタマイズされたレシピを作ることが臨界である。

最大公約数としての知的創造が行えるようになるのが、人工知能の第一段階。
ロボットがコモディティ化し、「個人所有」と言うことが可能になる未来から、人工知能の多様性対応が始まる。

人間の能力のアウトソーシング
それが技術史の本質と僕は思う。
決断すらもアウトソーシングした果てに残るは感覚と知覚。人間を人間たらしめているのは、思考の多様性ではなく感覚の多様性だと信じて…

仕事に押しつぶされそうな時の妄想マインドセット

組織活動を戦争、会社で行われる打ち合わせを戦場に見立てれば、歴史上の素晴らしき英雄たちの優れた戦略を取り入れて考えることが大変役立つ。

打ち合わせで行うプレゼンや、華やかな資料など、その場を統べるための戦術的としては確かに有効なのだろうが、それを用意せねばならなかった時点で、戦略的には敗北している。

ところで、仕事上発生するタスクというのは、一つ一つ片付けないといけないものである。誰がどうやるにせよ、それ以外の定義は有り得ない。また、そのタスクの積み重ねが、戦況を左右するようなことにもなる。いわばタスクの解消は、兵站の安定供給である。だが、兵站と異なるのは、「無くしても問題がない場合がある」ということだろう。

我々一介の平社員として、タスクに対する対応方法は

  • 実施する
  • 実施しなくてもいいようにする
  • 誰かに委譲する

の3つがある。

実施する

これは最悪の選択だ。何故なら、仕事をやらなければならないのだから。ワーカホリックは別として、最小の仕事で最大の成果が上がることを最上と仮定した場合、仕事をするというのは最悪の選択肢である。それは「戦場に赴いて敵を一人でも多く撃つ」ことと同義である。

実施しなくてもいいようにする

戦略的にはこれが最上だ。やらなければならないことをやらなくていいようにする方法があるなら、迷わずそれを選択するべきだ。

誰かに委譲する

これは自分がやらずに済むと言う点では及第点、自分が出来るor出来ない仕事を他に振って他者の力を強めるという組織的な意味では良い選択だろう。
だが、「命令に対する責任は、実行したものではなく、常に命令した者にある」という原則に則って考えれば、逃げの一手というわけではないので、勘違いしないようにしなくてはならない。

さて、上記の通り、「実施しなくてもいいようにする」が最高の方法であることは疑いがない。

では、その方法とは?

  • タスクを終わらせたところで何も変わらないことを証明する

管理によくあることだ。例えば、進捗管理資料の頻繁な更新。「誰が何のために見て、どういう成果が発生するのか」。管理職が見てそれだけで終わるようでは、進捗資料の定量的な意味合いはない。もし自分たちの職場の進捗資料が、見せてそれだけで終わるような、着地点の存在しない類の資料であるならば、それに費やす時間は限りなく短くすべきだろう。(進捗資料の更新をやめろとは言わない。組織運営上、逆らえない事情もあるだろう)

話はそれるが、日本のキャリアパスを辿って、ピーターの法則に従って昇進してきた管理職の殆どは、「管理の成果」を最終的な結果とみなし、途中の「部下に報告させることによって発生する成果」を重視しない。

  • タスクを無為なものにする

戦略において、戦わずして敵を無効化してしまうことほど、効果の高い戦闘方法は存在しない。
例えば、2日間かけてプログラムを作るタスクがあったとしよう。
そのタスクを無為なものにする方法を考える。
そのプログラムは誰が使うのか?
そのプログラムは何のために使われるのか?
仮に、そのプログラムが進捗資料の自動更新を行えるプログラムで、管理職が週一回使用する予定であるとしよう。

これを無為にするには

  • 管理職が進捗を確認する意義をなくす
  • 進捗資料の意味をなくす(形骸化)

これは同じことを示している。
つまり、「進捗資料を用いて報告してるけど、オフィシャルに出来ない話がたくさんあって、資料に落とせないから口頭で言うようにしますね」とか、「忙しくて進捗資料を精度が悪くて、個別でケアしないといけない」とか、つまり、何かに理由をつけて、進捗資料それ自体が意味のないものにしてしまう。

会議のベースになる資料が信用ならないものであるなら、何を信用すべきか?対話である。チーム内での報告と、役員への説明資料は性質が異なる。管理職が対話することを怠ることを正当化するための進捗資料更新など、悪以外の何者でもない。

タスクがあまりに多くて押しつぶされてしまいそうになることがあるが、「実施しない」と言う選択肢が常に最上であることを念頭においておきたい。
とは言え、あまりにそればかり考えてるとただの屁理屈野郎と思われる危険性もあるので、バランスが大事だ。
自分の戦略が奏功するかどうかは、まずは信用されることが前提になるのだから。考えても実行に移せない状況は、それだけで敗北だ。

アイデアを盗むと言うことの危険性

まだ現実になっていないことのアイデアを他人から盗むことの恐ろしさは、そのアイデアが形になっていないことに起因する。
形になっていないアイデアというのはつまり、未来のことである。
そういう、他人の考える未来を盗むと言うことは、それが必ず実を結ぶとは限らないことを意味する。
そのアイデアを最初に思いついた人は、アイデアと共に必ず未来を思い描いている。だから、アイデアだけを奪ったところで、その最初の人の思い描いた未来が必ず来るとは限らない。

例えば、僕にはとあるアイデアがある。たぶん、今はまだ現実になっていないアイデアだ。
それを考えると、僕の頭の中では未来予想図が妄想される。

さて、そのアイデアを君が盗んだとしよう。うまくカネになる方法を見つけ、君は成功する。
その結果訪れた未来は、果たして君にとって良い未来か?
僕が思い描いた未来と同じか?
君はそのアイデアの有用性を知りながら、変質する世界を持て余すことになるのではないだろうか?
それはそうだろう。僕が思い描いた世界と、君が作り上げた世界が同一であるわけがないのだから。

イデアを盗む時は、必ずその世界観と一緒に盗まねばならない。でなければ、アイデアは世界に馴染まず、持て余すことになり、破綻する。
世界観とは哲学である。アイデアを公表する際には、哲学を学んでから公表することをお勧めする。
そうすればまるでアイデアが公開鍵、哲学が秘密鍵となるように、アイデアだけ取られたところでその世界観は漏れることはない。