労働環境問題における根底にある原因

労働環境の是正へ取り組む政府の動きが非常によく見えている昨今、その動きと企業の動き、さらに実際に働く従業員から聞ける声にはギャップがある。

当然、最もギャップの大きいのは従業員からの声と、企業側の施策内容だ。
電通が22時で消灯することを実施したのとは対照的に、従業員は持ち帰り仕事をしているだけ、早出をしているだけ、など、施策がポーズに過ぎないにしてももうちょっとやり方があるだろとツッコミたくなるような雑さであるが、つまりは残業抑制しようとしても、仕事量が抑制されなきゃ意味がないよねと言うお話。
なんというか、どんなアホでもわかるような理屈なのに、実施するのは難しいよねと言うことだ。

で、必ずこうした労働環境問題とセットで語られるのが、日本人の生産性問題。いわく、残業しないといけないのは日本人の生産性が悪いから云々。
それぞれの論には、成る程、とても理がかなっていて、納得させられる。

けれども、それでもなお、問題が明確であってさえ、修正するのが難しいのが、文化である。

僕は、この労働環境問題の根底にあるのは、他人への権利の無理解であると思っている。

例えば、有給取得しようとして断られるのも、他人の権利を軽んじている証拠だ。

例えば、「こんなドキュメント作成は意味がないから作りたくない」と仮に言えたとしても、それが真剣に受け入れられないのも、他人の権利を受け入れていない証拠だ。

例えば、残業代より自分の時間を、と主張しても残業しないのは協調性がないやつ、などと白い目で見てくるのも、他人の権利に無理解な証拠だ。

人にはそれぞれの人生があり、それぞれの主張があり、それらは尊ぶべきものだと言う考えがないことが、根底にあるものだと僕は感じる。

労働環境や生産性はよく諸外国と比較されるが、その問題の根底が他人の権利問題にあると思えば、僕は割と腑に落ちる。

何故か?そうしたものは、宗教が強く後押しをしていると強く感じるからだ。

ご存知の通り、殆どの日本人は無宗教だ。
つまり、殆どの経営者もそうである可能性が高い。
宗教がなければ人間は傲慢になる傾向にあると僕は考えている。ましてや、資本主義社会の今であればなおのことだ。

他人への思いやりを含む宗教と資本主義が素晴らしい調和を生み出したのが、よく見本にされる欧米である。

とは言え、別に宗教がないことが問題などと結論するつもりなどない。結論に値する論など、どこにも存在しない。
僕たちが選べるのは、「どちらがより良いか?」だけで、「何が正しいか?」なんてのは選べない。
それを探していて難航するのはわかるが、日本人は几帳面なので悪魔の証明に取り組み始めているのがわかる昨今である。

畢竟、労働環境に問題意識を持っており、微力ながら自分も行動に移したいと思っているなら、他人の主張を受け入れることから始めてみよう。自分が上司で、部下に言うことを聞いて欲しいのであれば、まずは部下の人権を尊重し、彼が何を大事にしているか、会話の中で見いだし、受け入れてあげよう。

英語生活での頭打ち状態について

去年の3月頃からアメリカプロジェクト遂行のために、通算21週間ほどアメリカ滞在している。
最初は後頭部の痛みを感じていた英語にも、仲の良いアメリカ人が出来てからはだいぶマシになってきた。

でも最近、なんとなくスランプを感じる。「あ、いけるかも」と思っていた時期がなくなり、少し恐怖感が出てきた。
それが何故かはわからない。慣れが原因で逆に起きていることなのか、ストレスによるものなのか。

仕事自体ももちろん不安でいっぱいだ。本社に応援を要請しても、具体的に何かしてくれるわけでもない。
結局は自分でなんとかしなきゃならない。

こと英語について言えば、伸び悩んでいる感が非常に強い。新しい英単語なんてのは覚える以外の方法はないんだが、
問題なのは英単語のニュアンス。頭で聞いた言葉を英単語に分解して翻訳したり、あるいは言おうとしていることを
頭の中で英文にして…と言った方法について限界を感じる。

そう言ったやり方は、頭の回転の速さに完全に依存したやり方であって、仕事の会話を続けることが出来る方法ではない。
言うなれば、日本語と英語の翻訳を無理やり一人で可能な限り最速でやろうとしているだけだ。

でもそんなやり方は、「言葉の持つ意味深さ」の前には完全に役立たたない。
takeを「取り上げる」と言う日本語訳で覚えている限り、その単語の持つ本当のイメージには到達出来ないため、会話がわからなくなる。

ネイティブの使う文法は本当に、僕たちが覚えてきたものとは違う。
僕たちが受けてきた教育があまりに理想的すぎて、翻訳の解釈を与えすぎて、あまりに理屈的すぎて、会話が出来ない。

僕たち日本人が会話で使う文法について考えてみるといい。教科書で使うような文法か?
頭で組み立ててから話しているか?喋りながら考え、情報を継ぎ足し、会話の着地点を探しながら話しているのが常ではないか?

日本語で話すときの感覚と、英語で話すときの感覚。
その2つの違いを感じるようになってから、英語を話すことがどういうことか、わかるようになってきた気がする。

もっと感覚的に話さないとダメなのだ。単語なんて多く知る必要はない。適切な単語があれば誰かが教えてくれる。
「データベースにデータを入れます」
これが put data into database なのか、set data into databaseなのか、take data into databaseなのか、頭の中で考える前に話せ!
思いついた言葉を先に言うことが大事だ。わからなければ相手の顔に?マークが浮かぶ。じゃあ別の単語を使えばいい。
初めから正解を求めることこそが不正解な姿勢なのだと、強く思うようになってきた。

仕事の生産性を上げて給料が上がる

僕はその決まり文句を聞くたびに思う。
普通のサラリーマン従業員には、無縁の話である、と。
生産性を上げた結果、会社に利益が出たとする。それが、賞与と言う形で社員に還元されることはあるだろう。
だが、「生産性を上げた本人の給料が上がる」か?

他の社員と比べて、多少賞与支給額が高くなる…そういうことはあるだろう。
だが、基本給に反映されるだろうか?生産性の高い社員が、基本給で上司を抜くことがあるか?
会社にもよるかも知れないが、あまりポピュラーではないのではないかな。
部長課長クラスになると、人員を管理する役職上、当然部下の給料について把握する必要がある。人件費はキチンと管理すべき費用だ。「いやあ、あいつがどんだけ給料もらってるか、わからないよ、ハハハ」なんてのは笑えるが笑えない状況である。

そんな、予算管理を行う立場にある人が、「あいつは生産性が高くて明らかに利益を生んでいるから、基本給を月5万上げてやろう。おっと、そうしたいが会社の規定がそうなってなかった。その上、部長のオレと同程度、課長の給料よりも高くなってしまうじゃないか」
ここまで来て、「まあそれでもいいか」となるところは、日本ではほとんどないんじゃないかな。

例えば、40人で100メートル徒競走をしたとして、全員少なくとも20秒以内で走ることが要求されているとする。
この時、合計時間の「800秒」が売上目標、売上予算とする。秒数が少なくなれば「利益が出」、多くなれば「赤字になる」。

さて、ある人は、100メートルなら全力を出せば13秒で走れる。合計時間は793秒になり、7秒の利益が出る。

この出た利益の7秒を、他の40人にも還元しよう。他の足の遅い人が27秒になっても、大丈夫だよ。

これがチームプレーである。弱きを強きが補う。素晴らしい。

さて、タイトルの通り、「生産性を上げて給料を上げよう」というのは、13秒で走って、7秒分の利益をもらおう。という企みである。
これが可能なのは、他の39人も生産性を上げ、合計時間が520秒になり、一人当たり7秒還元して良いという場合のみである。
基本給に反映されるとなると、恒常的にそういうことが行われてなくてはならない。

そんなことが会社の規定上、現実的に有り得ないから、13秒で走れるところを、だらだらして18秒で走ることになる。つまるところ、余力があるのだ。

仮に13秒で走って、自分の稼いだ7秒が自分の所得になるなら、誰だって全力を出す。

全力を出しても自分に得がないから、人は全力を出さないのだ。

簡単な話だ。何故共産主義より資本主義になったか考えてみればいい。

会社の規定が共産主義的である限り、生産性が従業員に還元されることはない。

逆に、「上がった生産性」を「上げるべき給料」に即換算出来るような仕事はそうないんじゃないかな。生産性の定義は難しい。大抵は、効率と一緒くたに考えられるが。

10日で終わる仕事を5日で終わらせたなら、それは元々5日で終わるはずの仕事だった、見積もりが甘かったね、と言われて終わるのが現実だ。

この辺のことについて考え出すと路頭に迷うのでいったんここで今日は終わろう。

自分に関する自分の決定に責任を持つこと

コミュ力高い人しか採らなくなったら会社が潰れましたみたいな話が最近あったけど、あれの相似形はどこの会社でもあるんじゃないかな。

つまり、管理職の方が多くなったら会社が回らなくなった、って感じの。

僕は今自社に対して強くそう感じている。
何故なら、実務をするメンバーよりも管理をするメンバーのほうが多いように感じるから。
実態はどうか知れない。でも、平社員より役職持ちの方が多いのは確かな気がする。

開発は外注、運用実務は平社員、という、まあユーザー系企業にはありがちだと思う体制だと思うんだけど、問題は、年齢層の上昇に伴って、管理を仕事と「しなければならない人」が多くなってきたって感じかな。

キャリアパスの選択肢の無さの結果、これに尽きにけり、って思う。

僕も役職は持ってて、部下やら後輩やらを導く立場に云々ということを言われるけれど、その言は、全くスケールしないことに誰も気付かない。

一般的に言わせてもらえば、「立場が上の人は下の者を導くべきだ」と言う言葉はスケールしない。
組織が逆ピラミッドの構造になったときに、破綻するからだ。

多様性について考えてしまうと同時に、「自分の仕事とは何なのか?」と言うことを強烈に考えてしまう。
今まで実務をしていて、さあもう10年もやってて、細部まで理解出来てきて、もう何でも出来るぞってときに、管理の仕事のほうが多くなるという現状。

得意なことをさせた方が生産性が上がるという事実に相反する組織の活動。

さて、僕はどうすべきだ?
決まってる。言葉を重ねず、ただやりたいことをやるだけ。
自分の仕事が何なのか考えてしまうってことは、定義されてないnull状態だ。
好きなことをやればいい。
理屈と膏薬はどこにでもつく。
誰が言ったか、何を言ったかは関係ない。
何が決められてて、何が決められていないのか。何を自分で決めれるのか。
決定には責任が伴う。
誰も、他者の言動を縛るような規定や方針を決定したがらない。
だから自分のことは自分で決める。自分のやりたい仕事は自分で探す。とてもシンプルなことだ。

何故事務処理に終われるのか?

人員に対して案件量が多い。
予算に対して案件量が多い。
一つの案件の額の振れ幅は、40万から2000万くらいまであり、一人当たり毎月4~5案件は常に抱えている状態。
案件の受注処理、検収処理も毎月ある。
定型的な処理といえども、いわばハンコ押印ワークフローなので時間がかかる。

一つの案件の受注処理に2~3日の調整事項、事務処理が発生するとする。
一つの案件の検収処理に1~2日とする。

同じ月に受注1件、検収1件があるとする。
それだけで3~5日の事務処理が発生する。
間接業務である。

また、各案件の進捗確認、Todo確認、案件半ばでの調整事項が各案件に付随する。そうした付随工数を1案件につき8時間/日としよう。
4~5案件抱えている状況だと、3日~5日ほど時間が取られる。

上記状況だと、間接業務だけで6日~10日が割かれている。
営業日が月20日間だとすると、実に30%~50%である。

残り50%~70%を全て実務に費やせるか?
否。まず、システムの問い合わせ運用業務や、他システムの突発的な打ち合わせなど、非定型業務が存在する。
概ね平均、月30時間ほどとしよう。残りの時間が18%ほど削られた。

また、社内の業務も存在する。月10時間。9%削られた。

これで残りは13%~47%になった。

驚くべきことに、案件責任者は基本的に仕様詰め、設計、テストなども行わねばならない。
つまり案件の実業務とも言えるものだが、上記の通りの状況で時間を捻出しなきゃならない。

リリースするものに対しては、当然さらなる調整事項が増える。

エトセトラエトセトラ。

かくして、日本のSierには、身になることをする時間がほとんど与えられない。Q.E.D

残業を減らすと言うのは実のところ現実的ではなく、金に関する仕事が多い以上、どうにかするべきは案件の多さ、つまり大量の仕事を如何に捌くか、という視点に興味が沸いて当然である。

単純な発想として、いくつもの小案件を束ねて、大きな案件とし、管理する案件を減らしてはどうか?

これは案件を回す側にとっては良いアイデアだが、意味のある予算の使い方と言う面から見れば難しい。

本来20案件のものを束ねて1案件とする。
金を支払う側は、例えば2億円の用途が数多ある「諸改善」というものになり、一度に2億円の決済をするための役員への説得でまず失敗する可能性が高いだろう。

また、案件に対する成果物も明確ではないため、検収条件も一捻り二捻りも必要である。

いずれにせよ、タンマをかけれる状況があるわけではなく、全てがスピーディーに進んでいるこの世の中で、自分が何を出来るか考えると、どうしようもなく途方に暮れてしまうのである。

労働者たちへ。

機運は高まった。
電通の新入社員の女性の過労死は痛ましいばかりで、ご冥福を心よりお祈りする。
あんなことが起きてしまったご遺族の心象を思うと、言葉もない。もし僕の子供が大きくなって、こんなことになれば、僕は何が何でもその会社が倒産させて、復讐するだろう。自身の子供の命というのは、自分の命を犠牲にするほど、大切なのだ。だからこそ、こんな事件は許してはならない。もちろん、この事件が氷山の一角にすぎないことは承知している。

だが、だからこそ、氷山の一角が報道されたこの機を、逃してはならない。

僕ら弱気労働者に出来ることは、ただ犠牲者の冥福を祈ることばかりではない。今こそ、反撃だ。

よく考えてもみろ。この殺人の意味することを。僕らは誰もが犠牲者になりえる。
もし、君たちの上司が厳格で、暴力的で、ブラック企業を体現しているような人物であれば、その人は殺人者となり得ると言うことだ。もちろん、犠牲者は君かもしれないし、仲良くしている同僚かもしれない。

時々ネットで見かける、「もう長時間労働はやめよう」と言う言葉。

違う。今言う言葉はそうじゃない。今、我々が言うべきは、「また今月も長時間労働になりそうだなあ~~~」だ。

記憶が新しいうちに、それを聞いている人が、自分の部下や同僚も犠牲者になるかも知れないと思わせろ。

これを機に長時間労働を無理に止めることなんてするな。今こそ攻勢に出るときだ。
君の長時間労働が経営者を青ざめることが出来る貴重なこの時期に、何故長時間労働をしなくてはならないのか、長時間労働が何故なくならないのか、頭がハゲるほど考えさせてやれ。

人事権を持つ人物に聞こえるよう、大きい声で言え。
政府も働き方改革だかなんだかで、労働市場にメスを入れている昨今、自分の同僚が長時間労働をすることに対して何も思わないはずがない。

君が本当に長時間労働をなくしたいと心から思っているなら、君が自主的にストップすることが唯一の方法ではない。
むしろ君一人が抗ったところで、システムが変わらなければ、君の時間を少し止めることにしかならない。

本当の抵抗とは、我々弱き労働者の団結をもって、上層部に長時間労働抑制の仕組みを作らせることだ。

もし、「長時間労働がなくなればうちの会社は危ないよ!」なんて言おうもんなら、君は嘲笑していい。
君が自分を犠牲にして、献身的に長時間労働をしてきた会社は、その程度のものなのだ。見限れ。

もし、今回の事件に対して何も思わない会社であれば、それこそ何の後悔も抱く必要もない。見限れ。

君はほんのちっぽけな労働者かもしれないが、守るものがあるなら、今こそ戦え。

僕のこのネットの片隅での呟きが、誰かに届いて勇気となることを願っている。