大量生産大量消費の誤謬

恵方巻き、早くも大量廃棄 店頭に並ばないケースも…:朝日新聞デジタル

僕は思うんだが、昔と今では、大量生産大量消費の規模や意味が違うのではないか。

今の技術力で本気の大量生産をすると、昔と比べると比較にならないほど多くの物を作れる。
大量生産で大量受発注をし、大量消費をするということが、単純にスケールアップしたとき、物が余るのは必然的である。

小売店は、大量に仕入れた方が利益に繋がるから、もちろん戦略として大量に仕入れる。
しかし、コンビニのような、あちこちにある店が同じ戦略を取ると、「合成の誤謬」が発生し、消費は分散され、各店の売上は均され、期待より売れない、物が余る、という自然な状態が発生する。

そういうマクロな視点で見ると、「売上を増やすために店内で工夫する」というのは、あくまで最後の戦術だよなあと思う。戦略ではない。

極論、僕は生産の未来は需要予測ではなく、必要確定によるものだと考えている。
10個のコンビニが100個の恵方巻きを300人にどう売るかではなく、300人の恵方巻きを買いたい人がいつどのように生産チャネルへアクセスするか。
小売に欲しいというのではなく、消費者が生産チャネルに直接アクセスすることで、必要数の確定から物事が動くため、物が余らない。
物が余らない社会は非常にエコだが、非経済的だ。
生産して消費するという経済の根幹は、果たしてロボットなどの新労働層の登場によって揺るぐだろうか。
非常に発達したルンバを、労働力として認めた先には何が起きる?

富の未来 上巻

富の未来 上巻

リエンジニアリング革命

リエンジニアリング革命―企業を根本から変える業務革新

リエンジニアリング革命―企業を根本から変える業務革新

読んでます。面白い。とても1993年の本とは思えない。
現代にも通じる本質が書かれているためか、はたまた、当時から状況が変わっていないのか。

競争においては、順調な時こそ立ち止まる…

含蓄ある至言だ。
さて、僕の競争相手は誰だろうか?僕は止まっているのか、それとも進んでいるのか?

ユーザー系子会社の憂鬱

僕はユーザー系子会社所属のしがないSEだが、最近憂鬱を感じている。

というのは、SEというのは、ソフトウェアに関する知識と、業務知識の双方が必要となるが、その2つに関する教育や勉強というのが評価の対象にもならず、従って、ソフトウェアも業務も中途半端に聞きかじっただけの人が多いため、プロジェクトの何かの問題について理論的に分析したりするといったことがない。

誤解を承知で言えば、

教育や勉強がOJTという言葉でごまかされている。

OJTは経験則を増やすだけで、理論を学べるものではない。

また皆も承知の通り、ソフトウェアは体系的な学習がなければ、よほどのセンスある人間でないと、単なる下手な鉄砲になる。

業務知識に関しても同様で、ユーザーと話すために必要な知識はユーザーから教えてもらう、という、一見合理的に見えるが、その実表面をなぞるだけということしかしていないので、ユーザーの業務分析を理論的に行うことが出来ない。

理論を勉強したりするということがおざなりにされている弊社に未来はあるか?
最近よくそんなことを考える。

学んだ理論はすぐに現場で使えるものじゃない。
だけど、理論なく動く現場は、持続性がない。そう思う。

法案と労働者意識と

裁量労働制について、「定額働かせホーダイ案」とか、色々な批判が目に付くが、単なる煽動にしか僕の目には見えない。

というのは、当然ながら、法案を審議しているのは国会であり、法案を運用するのは企業である。

そうすると、「過労死に追い込む」のは悪い経営者であり、国会議員ではない。
何故かよくわからないけど、法案を通す人たちが過労死を促進させる意図があるかのように喧伝されてるけど、違うんじゃないかな。

国会で審議されているのは「働き方」であり、「如何に給与を定めるか」ではない。結果として賃金が上がることを狙ってのことじゃないかと考えてる。
迂遠だけど、賃金上げるためには賃金を上げる法案を通すのではなく、違うアプローチが必要なんじゃないかな。

そういう上記の思考をベースに考えると、どう考えても過労死させるのは法案ではなく経営者であり、労働環境である。
法が守ってくれるのでなく、法が我々に自由に働き権利を主張することを許してくれる。
つまり、僕たちは自主性を持たなければならない。「法で縛られているから逃げれない」ではなく、「法は逃げることも許してくれる」、そう思えることが大事だ。

タバコが一気に悪になり、世界中で喫煙が減ったように、意識なんて風潮で変わる。
世の中は感情で動いてるけど、感情を生み出す理屈が裏にあるというのも忘れちゃいけない。

これ一冊でぜんぶわかる! 労働基準法2017~2018年版

これ一冊でぜんぶわかる! 労働基準法2017~2018年版

お金の知識

最近、自分にはお金の知識が足りないと感じ、通勤中にこれを読みながら勉強している。

僕のような脳が足りんかった男にもわかりやすく書かれている。が、この手の本にありがちな、「ある一定の知識がある前提の話」というのももちろんあるので、そういうときはGoogleが捗るか、思考停止が捗る。

濫読が良いと言う話を鵜呑みにし、質より量だと考え、わからないことはわからないまま置いておくことにし、ひとまず読み切ることを目標に進めている。

景気を読むときに、各種指数や、原理的なことがやはりあるので、そういうことを知ることはとても楽しい。
子供には早くからお金の仕組みは教えてあげたいので、先ずは自分から勉強だ。
本当に、お金のことはちゃんと小学校のときから教えてくれたらなあ、と思う。
そう思うからこそ、小さい頃からお金の知識があることは、成績以上にとても差が生まれるものなんだろうなあ。

ビジネスアイデア

僕には、とあるビジネスアイデアがあって、自分や仲間たちの間ではそこそこ成功の可能性が高いんじゃないかと考えている。
調べた限りだと、それを実現しているサービスもないので、競合はない。
しかしながら、結構破壊的なビジネスモデルでもある。
と同時に、20年後は、認められた発想になっているという自信もある。

問題は、これをどう進めていけばわからないということだ。
根幹のアルゴリズムの概要は殆ど出来ていて、実装するのみという状態である。
しかし、このビジネスの概要を知るのは僕を含めて3人しかいない。
そしていずれも仕事や私生活が多忙で、片手間で何かやるといったことが出来ない。

時流を見ることは非常に重要だ。
残念ながら今はまだ、何かの犠牲を払ってまで動こうとは思えない。
本業の仕事に余裕が出来、子供が大きくなり、家庭が安定してからでないと、今の社会じゃ一歩踏み出す気にはなれない。せめて、行政には電子化してもらいたいね。そういった、「動きたいけど動けない」人たちが少しでも動きやすいように。

聴くたびに歌詞の変わる音楽

僕は時々考える。
ヘッドホンをつけて、Google play musicの再生ボタンを押したときにかかる曲は、何故いつも同じ歌詞なのだろうか?と。

曲と歌詞を分離して、歌詞の部分をハッカブルに出来ないもんだろうか。
VOCALOIDとかならまだ出来るのかな。
歌詞は曲と切り離されているようでいて、実はそうではなく、歌詞を発生する声も楽曲の一部というのが、ハッカブルなのを難しくしている。

非常によく出来た曲・歌詞だが、「ここの言い回しは違う方がいいのに」とか言うことがしばしばある。
だけど、視聴者である僕らには、その改変は許されていない。
カラオケバージョンに自分の歌詞を乗せることは出来るが、自分の声で歌う以上、そのアーティストの楽曲ではなくなる。

スピッツのコンサートで歌われる「けもの道」は、そのコンサート会場に合った地名を言うといった歌詞改変が行われている。

曲の○○バージョン、というものも存在する。カバー曲。リミックス。
最近聞いただと、エリック・サティのジムペディに歌詞をつけたmosaic.wavの歌が印象深い。

楽曲、歌と言うものは、創造物であるにも関わらず、ハッカブルになかなかならない。

カラオケは歌い手の変更。

「同じ曲だが、視聴者によって何かが違う」
そんなことは可能だろうか。
もしそれが可能なら、価値を持つのは一体何だろうか?
改変後の曲が如何に良くとも、改変されたものの一つである以上、オリジナルほどの価値はない。
楽曲は当初、作曲者によって作られた時に、ある意味世界が閉じている。故に、如何に改変可能になったとしても、オリジナルは不変の価値を持ち続けるのではないか?

昔は、音源に対するアクセスが難しかったので、そこに価値が発生した。
今は、オリジナルが簡単にネットワークに乗せられて、誰もがアクセス可能となったが故に、「聴くこと自体の価値」が薄まり、金銭を落とさなくなった。
ならば今後は、「改変可能な曲の中で唯一無二の存在感を放つオリジナル」としての価値、となるか?