人から教えてもらうことと知識で解決することの違い

時々、「ここでハマりました」「ああ、それは○○と言う理由で、こうすれば解決出来るよ」「手順書に書いてなかったのでわかりませんでした。」
なんて言う会話をすることがあるんだが、その○○と言う理由が、業務によるものではなく、どちらかと言えば環境周りであったり、インフラ周りの事情であったりする。

例えば、

pip install sphinx

を実行しようとしたら、timeoutが発生しました。
色々調べてみたら、--proxyオプションを指定しないといけませんでした。
予め誰かが教えてくれてたら、あるいはマニュアルに書かれてたら、時間を無駄にせずに済みました。

と、教えてくれなかったことを非難してくる人がいる。

しかし、翻って考えてみよう。
もし自分たちのマニュアルにきっちりと--PROXYオプションを指定することと書いていたとする。あるいは、何らかの情報共有ツールの中に、きっちりと--PROXYオプションの指定が触れられていたとする。
社内で実施する限り、それはうまくいく。担当者は何の疑問も覚えず、何事もなくsphinxをインストール出来ることだろう。

さて、その担当者が出張でホテルへ宿泊した。ラップトップが新しくなったので、ホテルでインストールしてみるか、と思い立つ。マニュアルに従い、インストールしようとすると、--proxyを指定しているにも関わらず、timeoutが発生することに気付くだろう。
当然、そのproxyは社内でなければ繋がらない。
しばらく時間を費やしたあと、担当者は、「proxyを外すときがある場合のことを書いてませんでした」なんてことを言ってくるかも知れない。

ちょっと待てよ

それはマニュアルの親切さではなく、

  • 君の根本的な知識不足
  • 君がマニュアル脳

である事が理由だ。
マニュアルは、読む側に一定の知識を要求する。
応用するには知識が必要だ。
自分の知識不足を棚に上げ、マニュアルの不備を指摘するのは、教科書に書いてない問題は全て悪問だと言わんばかりの言い草だ。

エンジニアは、こうしたことが頻繁に発生する。
つまり、ネットで何か調べて実行しようとしたら、うまく動かない。
それは調べた結果が不親切であるためでも、必要な事項が書いてなかったためでもなく、読む側の知識が足りなかっただけに過ぎない。

全てを教えてもらったとしても、全てを理解出来るとは限らないのだ。
教える側に知識があり、それを与えてもらう機会がどれだけ多かったとしても、その知識を自分の血肉にするためには、それを理解するための知識が必要なのだ。

体系立った教育がなく、OJTをして新人を教育しようとすることは、新人自身がたゆみなく学び続けないといけないことを意味するが、なぜそうなのかと言う説明が一切ない。
そこに悲劇が登場する。

報酬と成果の関係

シンプルに不思議に思う。

僕が日本企業に所属いるからだろうか?

例えば、僕が色んな人の意見を取りまとめて夢のビジョンを作り上げ、例えば1億円の案件を獲得し、利益500万円を確保してやりきったとする。

他方、同僚が1000万の案件を獲得し、利益50万を確保してやりきったとする。

僕と同僚の間には恐らく金銭的な差がほとんどない。
あったとしても、ボーナスでせいぜい10万つくかつかないかだろう。
上げた利益に450万の違いがあるのに、何故?

会社活動だから、売上た利益は投資に回る。
それはわかる。

しかし、その利益を生み出した人に、案件額に比例した還元がないのは何故だ?どういう仕組みでそうなっている?

加えて、赤字案件をやりきってしまった同僚Cがいたとしよう。
これでも、恐らく賃金に大きな影響はないだろう。




ああ、そうか。簡単な話だ。

僕らは時給で働いているのだ。
上げた成果は報酬とは無関係である。

それなら、真面目にやらないほうが、良いよな。

会社の利益が少なくなっても、時給で雇われてる僕らには知らん話だ。
会社の利益と僕らの報酬は何も関係ないのだから。

なに?会社の利益が落ちてきたから、従業員の給料を下げるだと?なんでそこで連帯責任?

おかしい話じゃないか、利益と報酬には無関係だと結論付けたばかりのに、利益と給料には関係があるだなんて。

いやでも、利益が上がっても給料が上がることなんてなかったぞ。

何がどうなってる?日本企業は従業員目線の理論などなく、とりあえず搾取だけしておけば良いってのか?

やってられるかクソが。外国の企業のほうがまだちゃんとした理屈があるわボケが。

と、そういう思考になる若者がどれだけいると思う?

若者がそう思い始めて、日本企業を避けるようになったら?

どういう未来が待っているだろうね?

あなたの会社は、そう思わない従業員がほとんどだろうか?満足している従業員が多いだろうか?

さあ。
想像する時間だ。

コンピューターと人間のアイデンティティ

【衝撃】「人間はコンピュータである」米有名大学が実証へ! 意識や感情も“量子”で解明、人間観が劇変か!

人間の解明が進み、本質はコンピューターと違えど、機能的に近似していることがわかったり、あるいは逆に、あるいは同時に、コンピューターが進化して、表面的には人間社会に溶け込めるようになったりしたとき、人間としてのアイデンティティが揺らがないまでも、労働・社会生活・消費生活に及ぼす影響は無視できないものになるだろう。

嘘喰いから受けた影響と戦略的思考

僕は嘘喰いという漫画が大好きで、否、大好きなんてレベルじゃなく、もう人生哲学の一つになってるレベル。

暇さえあれば嘘喰い読んでるから、頭の中に嘘喰いの世界が構築されて、嘘喰いの戦略の奥深さについてずっと考え、僕の生活や仕事へ多大な影響を与えている。

嘘喰いの勝負は、ギャンブルなのだが、「勝てない勝負はしない」と言う前提で勝負を受けているので、その事前の仕込みや途中でのミスリードがものすごく秀逸。

僕がよく生活や仕事に役立てているのは、

相手に何か情報を与え、その情報から進むべき道を考えたとき、進める方向が限られていると相手に思わせること。

自分の都合の良い状況を作るということをするには、相手に限定された情報を与え、その情報で相手に考えさせ、その実自分は別の情報を隠し持っておき、それを有利な武器として扱う、という戦略。

戦略とは情報操作の能力と言い換えることも出来る。

また嘘喰いから受けた影響は書き続けていきたい。

嘘喰い コミック 全49巻 セット

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ペーパーレスに隠された功罪

先日、ペーパーレスを進めた結果、今まで紙で印刷して配布していたことがタブレットによる電子表示になり、見事に紙の使用量が減ったという話を聞いた。

なるほど、とても良いニュースだ。紙の使用量を削減することにより、紙の購入代金が減り、経費削減により利益率が向上するだろう。

一方、タブレットがあるにも関わらず、作業者の不注意で現場の電源を落としてしまい、タブレットによる電子表示がないために不便を被ったという話を聞いた。

ところで、タブレットの運用には必ず充電、というか電気が必要になる。

僕はそのことを聞いてハッとした。

全世界的にペーパーレス化が進み、見事に伐採される木々が少なくなり、紙生産による環境破壊は食い止めれたとする。
ペーパーレス化の代替は、電子表示。それには電気が伴う。
結果、全世界的に電気需要が増大し、発電所は逼迫し、より多くの電気が供給出来るように、例えば火力発電であればより多くの化石燃料が消費されるだろう。

このことは、「世界のリソースを削減する」と目的を達成出来ているだろうか?

合成の誤謬という言葉が脳裏を過る。
一見正しいと思えることを皆が一斉にやることで、間違った結果が生まれる。

僕たちが考える合理性は、果たして正義か?

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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git diffからのvimで変更行数が少ないファイルの順番にソートして無駄ファイルをコミット対象から外す

qiita.com

会社でのリリース作業にあたり、面倒くさい手順をマニュアルでしていたが、スクリプト的な感じで手順化すれば簡単じゃね?と思ってまとめてみた。

成功と失敗の定義と客観

1人の大きな成功者の裏には、大きな失敗者が100人はいる。
誰もが大きく成功したいと願っているが、足元が定まっておらず闇雲にリスクを取った結果、失敗する者は多い。

失敗する者が多いのは、「成功の定義」が、客観的であるためだ。
「誰の目から見ても成功者」、そんな者になるためには、並から始めたら大きなリスクを取るしかない。あるいは、完全なる強運か。

そうではなく、成功を自身の主観で定義することが出来れば、大きなリスクを取ることなく、成功することが可能だ。
小さな成功の組み合わせが、やがて客観的なる成功へと積み上がる。
「ちりも積もれば山となる」ことは誰もが理解している単純な事実だが、客観を無視した主観的事項にはなかなか当てはめることが出来ない。成功とは、他人からの承認を受ける種類のものである性質が強いためだ。

成功/失敗が主観的なものであり、即ち解釈の余地があるものであれば、成功と失敗を同時にしていると見なされる人もいるだろう。

例えば資産1億を持つ人は客観的に見ればなんらかの成功者と言える。しかし、もしその人が家庭を持っていなければ? 
家庭を築き、つましく暮らしているサラリーマンから見れば、家庭を築くことに失敗した人のように解釈可能だろう。

羨ましさは客観的な成功への渇望であるが、満足は自身が定義した成功の証である。
わかりやすい指標に振り回されることから解き放たれることこそ、自分自身の人生を生きる第一歩だろう。