効率のよい働き方

効率、とは何だろうか?

 

決められた仕事を如何に短い時間で終えることだろうか?

 

如何に短時間で、多くの売上を稼ぐかだろうか。

 

効率的、というのは、

労力をかけずに目的を達成する

ことである。

 

ならば、僕らサラリーマンにとっての、働く目的とはなんだろうか?

僕らは、生計を立てるために金を稼ぐことが目的である。

ならば、どうすれば、労力をかけずに金を稼げるか?

 

それは、ダラダラと残業することである。

 

前提として

  • 残業代が出る
  • 自分の頑張りによって発生した会社の利益が個人の給料に反映されない

という点がある。

 

しかし、これを満たしている場合、働く目的に対して最も効率が良いのは、なるべく働かないことであることは明白である。

 

働かないことで会社が傾く?それはそうだろう。当たり前の話だ。

だけど、頑張って身を粉にして働いて会社の利益が計上されても社員に還元されないのであれば、頑張って働くことは、生計を立てる目的に対してどういう位置を占めるだろうか?

 

当然、生計を立てる上で会社には維持してもらわないと困る。だが、それと社員の無償の頑張りに甘えることは、別問題である。

会社が維持したのは社員の頑張りのおかげ、なのであれば、還元しない理由はどこにあるのか。

 

言葉の持つ威力

成功者はゆっくりと歩く。何故なら、余裕を持つことを意識しているが故に、人生や器にも余裕が云々

成功者は急いで歩く。何故なら、時間を無駄に姿勢こそが他と違いを作る唯一の方法だと知っている云々

おわかりの通り、上記は言葉遊びにすぎない。
内容に意味はなく、適当に、矛盾しない程度に単語を並べたにすぎない。

嘘をついているわけではない。嘘は良くない。嘘とは、事実と異なることを言うことに他ならない。ならば上記
は嘘ではない。

しかし大事なことは、こんな意味のない言説にも、時々は人を動かすことが出来るという事実である。
また、こういう言葉を適切に、相手と場面を選んで慎重に使うことで、人間関係を非常にうまく構築できることがあるという点もまた忘れてはならない。

相手に迎合すべきときは、相手が喜ぶ言葉を選べばいい。
それが自分の本心と一致していたなら、おめでとう、君は同志を発見したね。

言葉は武器になる。あらゆる意味でそうだ。
だから、言葉は、道具であると認識しなくてはならない。切り傷が癒えることのない刃であると認識しなくてはならない。

本心を言うだけが言葉の使い方ではない。

言葉を組み合わせるだけで、それが表す意味に対して自分がどう思っていても、一度聞いた側からすれば、もう脳裏から離れないのだ。

たとえば、

あなたは…その、言いにくいんですが、ちょっとチャラいですよね

こんな何気ない一言でもそうだ。
相手がどう思っていても、聞いてしまったら最後、頭から離れない。

これが自分の意見でないという意思さえハッキリしていれば、この言葉を出すことは、自分で状況を変えることが出来ることを意味する。

相手に言葉が届いたとき、状況は変わり始めている。
逆に、状況を変えたければ、言葉を出すのだ。

強い言葉は聞いた者を変質させる。それが例え自分自身であろうと。
だから注意しなければならない。

自分自身から出た言葉は、自分の本心であると錯覚しがちだ。
だが、「言葉はただの道具に過ぎない」としっかりと認識し、言葉に惑わされない強い心を持つことで、周囲を変質させる力を持つようになれる。

その後、言葉を操れるようになったあとに来るのは、「自分の本心はどこにあるんだろう?」という自己喪失だ。

とても踊りの上手なムカデさんがいました。
カエルさんは、踊りを教えてもらおうと尋ねました。
『ムカデさん、なんで君はそんなにうまく踊れるんだい?
最初のステップで、上から80本目の足を前に出して、そのすぐあとに下から20本目の足をひっこめていることがコツなのかい?』
そう聞かれたムカデは、もう踊れなくなりました。


自分すら意識していなかったことを、強制的に意識させられたとき、人はもう元に戻れなくなる。これは大変怖いことだ。
だから言葉は使い方に注意が必要だ。何度でも言う。

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

『電気の恋人』はプログラムに携わる人なら抑えておくべき神曲

電気の恋人 /* Dreamy IC Mix */

電気の恋人 /* Dreamy IC Mix */

前奏が1分あるけど、僕はこのバージョンが一番好き。

歌詞がとにかく最高なんですよ。
ノスタルジックを感じさせる旧世代の遺物もあるけど、単調なメロディだからこそ表現出来ている電子感。プログラム感。

恐る恐るスイッチ入れたら 無愛想な“OK”の2文字
「konnnichiwa」って入力しても “Syntax Error”何それ? 読めない・・・

これだけでも秀逸すぎて、目からウロコみたいな汗が止まない。

僕はプログラムに集中したいとき、頭の中でこれを再生したりしてる。社内ではヘッドホンをつけての業務が禁止なんでね…。

mosaic.wavは、電波ソングってだけで敬遠されてるけど、音楽は本物ですよ。
本当に、忌憚なく言って、よく考え抜いて作られた曲ばかりで、何年聞いてても飽きない。


MOSAIC.WAV 迷惑メーリングGIRL/MOSAIC.WAV

MOSAIC.WAV 迷惑メーリングGIRL/MOSAIC.WAV

この迷惑メーリングガールとかも、聞けば聞くほどすごい練り込まれていると感じる。

僕は語彙力が少ないので詳細な説明は出来ないのだが、友人から選択眼はあると言われているので是非とも聞いておくんなせえ。

サンリオピューロランドのホラーイベント「オバケンゾンビランド」閉館後の館内に大量のゾンビ

サンリオピューロランドのホラーイベント「オバケンゾンビランド」閉館後の館内に大量のゾンビ

サンリオピューロランドのホラーイベント「オバケンゾンビランド」閉館後の館内に大量のゾンビ - ファッションプレス

ゾンビ好きにとっては非常に行ってみたいイベントだ。

でも東京なんだよなあ…何か理由をつけていけないもんか。

「目潰しレストラン」はなかなか面白そうな趣向だ。
ゾンビから逃げている状態で、既に電気の失われた世界で、暗闇で声を潜めながら食べる料理というわけだね。自分の食べてるものが見えないというのは、食欲と恐怖心を同時に味わうことが出来る、シンプルではあるが乙な体験である。

ゾンビと視界は結びつきそうで結びつかない。
僕は、「デモンズ」に出てきた盲目の老紳士しか思いつかない。
まああれは厳密にはゾンビというわけではないけど…

デモンズ [DVD]

デモンズ [DVD]

不便なものをあえて使い続ける人たちへ感じる違和感

便利を享受するのに理由は要らないが、不便を受け入れるのには理由がいるのかね。

例えば、決済に便利なクレジットカードを「自分の使った金額がわからなくなるから」といって使わない人たち。

例えば、読書に便利な電子書籍を「自分で所有している感覚、読み進めている感覚がなくなるから」といって読まない人たち。

例えば、タスク管理に便利なクラウドで複数人で共有出来るタスクツールを「自分のノートに書くようにすぐに気軽に書けないから」といって使わず、いつまでもオフラインのノートで書き続けて共有を拒む人たち。

例えば、コミュニケーションに便利なラインなどのツールを「情報がどこに漏れてるかわからないから」といって、キャリアメールを使い続ける人たち。

例えば、世界と繋がるのに便利な英語を「自分たちは日本人であり、ここは日本なので、英語なんて学ぶ必要がない。日本に来る外国人が日本語を学んでくるべきだ」といって英語を学ぼうとしない人たち。


一方、便利を享受する人たちの言葉は簡単。

「便利だから」。

そして、しばらくすると皆、決まってこういう。

「もう昔のようには戻れない」。

技術史はこの繰り返しで紡がれてきた。

あらゆる主張は、大抵どちらかに分類される。
時流に従っているか、抗っているか。

抗う者は気付かない。知らず知らずのうちに、便利を選ぶ人たちに生かされるようになるということを。

世界文明における技術の千年史―「生存の技術」との対話に向けて

世界文明における技術の千年史―「生存の技術」との対話に向けて

映画「ボーダーライン」を観た


出張中の時間のある夜に、Amazon Prime を利用して視聴した。

僕自身、久しぶりに映画を観るということもあり、非常に集中して見れた。

しかし、集中して観ることが出来たのは、久しぶりということだけではなく、この映画がまるでドキュメンタリーのように進行するからであろう。

BGMはほとんどなく、雑音や雑踏の音、銃撃の音や車のエンジン音やタイヤが転がる音だけが聞こえ、あとはキャラクターたちの話し声のみ。

主人公であるケイトはFBIのエージェントで、いきなりメキシコのカルテルの捜査に巻き込まれ、今までとはまったく違う世界を見ることになる。

世界の全貌すら見えず、捜査の内容や意図も明かされず、法の及ばぬ地域で非人道的で非日常的な光景を目の当たりする。

しかし、視聴している僕には、それがまるで現実の世界を映し出しているかのような緊迫感を感じた。

これはメキシコの麻薬戦争の一部を映し出した映画だが、それが一部だとしても闇が広大であることを悟らせることが出来るような展開。
重要な登場人物が既に買収されているのか、それとも別の目的があるのか、全てを疑いたくなるシナリオ。
子どもたちが無邪気に生きている隣で起こっている、現実と思いたくない凄惨な事実。

これは映画だ。現実ではない。

だが、限りなく現実であると言い切ることが出来るほどの説得力のある映画。

僕は視聴後、麻薬戦争についてネットでいくらか調べてしまった。これがどこまで現実なのか、知りたくなったからだ。

そして、僕は現実は映画以上であることを思い知った。映画は当然だが、まだ「放映出来る」レベルであり、「起承転結」があり、「オチ」がある。

現実は恐らく、どれもない。

さて、話は変わるが、僕は10年前くらいから、映画より海外ドラマのほうが好きだった。
海外ドラマのほうが尺が長い分、より物語を精密に描けるから、深く世界を楽しめるから、と言うのが理由である。

だが、こういう映画を観るたびに、限られた尺と決まりきったエンディングで、テンポよく観るものに新鮮な驚きを与え、関心を与え、現実を顧みさせる、そういう映画もまた、とても貴重なものだと、改めて再認識した。

世界を、人生を、考えさせてくれるのが、良い映画というものなのだ。


前から来る失敗と、後ろから追いかけてくる成功と

自分が全力で走っているとき、
失敗は前からやってくる。
成功は後ろから追いかけてくる。

前からやってきた失敗にぶつかるかどうかは、広い視界と論理的な予想が役に立つ。
ぶつかって倒れてしまっても、起き上がって前を見れば、その失敗は追いかけてこない。失敗は常に前から来るのだから。だから常に前を向こう。

成功は自分の後方から追いかけてくる。
成功が自分を追い越したとき、自分はそれを捕まえなければならない。
それには、走っていても周りを見て手を伸ばす余裕がいる。走るだけで精一杯になっていると、成功は追い抜き過ぎ去ってしまう。

後ろを振り返れば山のような失敗と、自分に近付く成功が見える。
しかし立ち止まってはいけない。成功は走る者を追いかけてくる。

「思考は現実化する」を読んでて感じたこと。