RPAについての違和感について

以前より、RPAについては色々と違和感があった。主に利用者側に対してだ。
なお一応申し上げておくと僕自身はRPAを使ったことはない。あくまで見聞きした範囲で覚えた違和感であること、ご承知頂きたい。

何故、RPAをあたかも新しいツールのように扱うのだろう?やってることは単なる自動化で、あなた達が普段から我々IT部門に依頼していることと、本質的なところは変わらない。
挙げ句、「よくわからないからうまく動くように設定(開発)してくれ」ときたもんだ。
ユーザー側で自動化を出来るようにするためのツールなのに、それをIT部門に依頼する意義とはなんだ?

バズワードに踊らされるユーザーを別に責める気はない。ただ、自分が使おうとしている道具については、自分が何らかの理由があって使わなきゃいけないツールについては、自分がどうにかして使いたいプログラムについては、少し考えてほしい。

IT関係のツールは、何か目的を達成するための道具でしかない。ツールでしかない。手段でしかない。撮影したいと目的があってカメラを撮るのは自然なのに、何故ITツールはそうはいかないのか。
「なんとなく楽をしたい」?のか? それとも、今のほぼすべての業務はITと切っては切り離せないから、道具に対して欲張りになっているのか?

考えれば考えるほど、IT化というのは自己矛盾を孕んでいるような気がしてならない。

例えば水道ガス電気といったインフラは、同じ道具であったとしても、使いこなすタイプの道具ではない。どちらかといえば、媒介としての道具だ。
でもITはインフラのように扱われてもいるが、一方で道具のようにも扱われる。

ああ、ここまで書いて気付いた。
それは、プログラムとデータを切り分けれていないからだ。

水道ガス電気と同質なインフラは、データだ。

一方、そのデータを扱うのがITであり、プログラムだ。

そして、企業のホワイトカラーの業務は往々にして、データを扱う仕事だ。だから楽になるかも知れない道具としては、良質なガス栓ではなくプログラムであるのは必然なのだ。

そしてRPAとは、自分の扱うデータを自分の普段やっているとおりに扱うことが出来るというプログラムだ。

だから冒頭の違和感というのは、既に提供された道具としてのプログラムの更なるお守りをお願いされていることだ。

「こういう目的がある」「こういうことをしたい」

「だからこういうプログラムを作ってくれ」

というのが、IT部門に依頼するのは通例の流れだ。目的に叶う道具を揃えましょう。

しかしRPAは違う。

「こういうプログラムがある」

「だからこのプログラムをうまく使えるようにしてくれ」

感じる本末転倒感はこういうことなのか?

IT部門としては、結局、要件定義と言うか、「で、あんたは今は普段どうやって仕事してんの?」ってことを聞かないと話が進まないわけだが、それが明文化されたらIT部門はツールの教育だけをすりゃいいわけで。

人間は、自分たちが思うほど、目的を明確にする能力が高くはない、と最近よく思う。

無意味なデータは集積されて意味を持つ情報となり、
情報は蓄積されて利用可能な知識へと結晶し、
知識は分析されて、未来を予測可能なする知恵へと昇華する。

さて、自分たちはどこまで出来ている?

外付けHDDがぶっ壊れた

僕は恐らく2005年くらいから、外付けHDDへのデータ格納を実施している。
その時はちょうど専門学校生活も慣れてきた頃で、友人付き合いも上々で、だからコンデジを購入し、撮った写真を保管しておく場所が必要だった。
当時は、完全に外付けHDDと言うのは値段が高く、コスパが悪かったので、僕は日本橋バルク品の内蔵HDDを購入し、そこにデータを保管する習慣を作っていた。
だから厳密には、外付けと言うわけではないのだけれど、まあそこは年月が経てば徐々に完全に外付けHDDとなるので、便宜上外付けとしておく。

価格の安いバルク品をメインに使っていたため、当然壊れやすい。妙な異音がなったり、あるいはデータが破損し始めたと思ったら、すぐに新しいやつを購入し、そこに何時間もかけてコピー処理を実施していた。
最初こそ容量は300GBとかで運用していたが、だんだん足りなくなり、500GB、1TB、2TB、とHDDの容量は大きくなっていった。しかしその都度、データコピー作業は何の問題もなく終了しており、2005年からのデータは常に保管し続けることが出来ていた。

しかし、である。今回、僕はまたもHDDの異常を感じ、何年かに一度やっている通り、データの引越しをするか、と思って新しいポータブルHDD2TBを購入してきた。
そして元の外付けHDDを接続して読み込もうとした時、「フォーマットしますか?」というダイアログが出てきて、ドライブがマウントされない。
おいおい、マジかよ、まさかMBRが逝っちまったか?と思い、いくつかチェックしてみると、HDDの容量に対して未使用容量などはちゃんと表示される。
ということは、中身が死んだわけではない。MBRかPBRか・・・とにかく何か大事なデータが、何らかの原因で読み出せなくなっちまっているようだということはわかった。

TestDiskを使用すると、中身まで読み取れることはわかった。データは、失われていない。
異音もしないので、物理的に何かが動かなくなっているわけでもない。となるとやはりMBRかPBRの不良・・・と考えられる。
何れにせよ、中身のデータのサルベージの方法だ。

色々なツールを試してみたが、データを満足にサルベージすることは不可能そうだと言うことがわかった。
DiskDiggerというツールが一番良さそうだったので、これを使用してサルベージすることにした。
そのファイルのセクタをコピーすることが関の山で、ファイル名も失われる。
試しに何ファイルかコピーしてみたが、中身は問題なさそうだ。
背に腹は変えられない。中身さえサルベージ出来れば、あとは時間をかけて中身を判定し、整理していくだけ。なんとかなる。

ちょうどインフルにかかって自宅療養を余儀なくされていたため、時間をかける作業なら十分出来た。この機を逃す理由はなかった。

バックアップは定期的に。。。とはいうものの、なかなかうまく運用できないことは重々承知している。
今まで10年以上、HDDの移管をし続けてきたが、ここまで突然に、しかも読み取り不可レベルで壊れるのは初めてのことだ。
SSDならこの辺の耐障害性はまだマシなんだろうが、大量データのサルベージ先に選択するには、まだ価格が高すぎる。
5Gが当たり前になると、データ保存についてもだいぶ変わるんだろうか。
今は個人で1TBのデータを持つのも珍しくない時代だ。そんな大容量データを安全にクラウドで運用できる時代も、来ても良いとは思うんだけどね。
例えばAmazon Photosでは、Prime会員は無制限の写真ストレージが解放されていて、僕もそれを利用しているけど、あれって画像ファイルだけなんよね。動画は別で、15GBしか入らない。なぜ動画の無制限オンラインストレージサービスがないのか・・・と思って調べてみたら、Google Photoが随分バージョンアップしてて、これで良さそうな気が・・・w
音楽はGoogle Playに全部アップロード出来るしね。
おや、気付かないうちに時代が随分進んじまってたようだよ・・・

Flickrにアップロードしている写真を一旦全部ダウンロードする方法について

flickrの規約が大きく変わって悲鳴を上げている一人なのですが、悲鳴を上げるのに少し飽きてきたあとに考えるのはやはり如何に写真をサルベージするか、ということ。

2007年くらいから利用していたflickrだけど、当時は圧倒的な容量が魅力で、年間30ドルは支払っていた。

そこからYahoo!に買収されたりなんやして、無料でも1TBを使えるようになって、僕の使い方だとプレミアムである必要ないなと思って無料ユーザーに戻っていたんだけど、そんな矢先にこの規約変更。

10年以上アップロードし続けていた写真の量はそれこそ並々ならぬものであり、普段から別段写真を撮らない僕でも年月の重みを感じるくらいには膨大にあった。
定期的にアルバムを作って整理していたとは言え、整理しきれない写真のほうが割合は多かった。

他方、僕はAmazonプライムにも入っていて、そのサービスであるprime photoも利用している。
プライムユーザーなら容量無制限で、さらにファミリーも招待したら利用可能ってことで、そこに移行することにした。

しかしながら、flickrにアップロードしている僕の写真と嫁の写真を先ずはローカルにバックアップすることが前提であり、さてどうしたものかと逡巡していたとき、僕はプログラマーの末席に位置していることに思い至り、ちょっとスクリプト書くかと思い立って、スクリプトを作りながら下記の記事を認めた次第だ。

Flickrにアップロードしている写真を一旦全部ダウンロードする方法について - Qiita

オリジナルサイズでのダウンロードにはかなりの時間がかかるので、今も誰もいない僕の部屋でMacBookがCPUと外部HDDを唸らせながらダウンロードをしている。プログラムの真髄は、マシンに処理をさせて人間は何もしないってことだと噛み締める。

評価経済がやってくる

仮想通貨の台頭によって、媒介としての金に国境がなくなり、物の流通の仕方が根本的に変化する。
貨幣経済のあとに来たのは評価経済

国境のない仮想通貨の為替レートというべき意味合いのものは、人に対する評価となる。

例えば、善人と悪人が物を売買するとする。定価であれば1000円のスマホケース。
しかし、評価の良い者と悪い者の売買には、「評価レート」が加わり、悪人が善人から買う場合には、1500円出さないと買うことが出来ない。反面、善人が悪人から買うときは、500円で買うことが出来る。

例えば、善人同士が売買するとき。
この場合は、双方共に評価が高いため、500円で売買出来る。

例えば、悪人同士が売買するときは、双方共に評価が低いので、1500円でないと売買出来ない。


こういった、評価に対して物の値段が決まっていくと、「悪い者は搾取され、良い者は得をする」ことになる。

物の生産のあり方が変わるであろう21世紀には、当然ながら物の流れ方も変わるし、テクノロジーによってお金の国境もなくなる。

そうしたときに出来る次の経済こそが、評価経済だと僕は考えている。

ブラジル出張を通じて日本と比べて思うこと

ブラジル出張も2週間が経過しようとしている。残りあと1週間。
基本的には会社とホテルの往復なので、そんなにブラジルを堪能しているわけではないが、僕の見る限りで雑感を記していこうと思う。
もちろん、僕の観測したものであるので、偏見にまみれたものである。とても「ブラジルとは…」なんて主語の大きい話になんて出来ない。

治安

街を歩いているだけで、他の国とは違う危険さを感じる。浮浪者もよく見かけるし、道路がガタガタで整備されていない。
そしてまず目につくのは、建物のセキュリティ。僕が見る限り、以下のレベル5まであった。

  • レベル1(セキュリティ無し)
    • 誰でもすんなり入れる場所。街角のちょっとしたショップや食べ物屋など。
  • レベル2(警備員立哨)
    • 建物には誰でも入ることは出来るが、武装した警備員が入り口に立っている。大き目のショッピングモールや、ちょっと良いレストランなど。
  • レベル3(建物に柵)
    • 建物の入り口が、柵のドアから入るしかない建物。何らかの鍵がついている。監視カメラや破壊を探知した通報装置などがありそう。
  • レベル4(建物に柵+有刺鉄線or電流鉄線)
    • レベル2よりもさらに侵入を難しくしている。
  • レベル5(建物に柵+警備員)
    • 柵のドアが、内部の警備員によってしか開かないようになっている。人が居住するコンドミニアムなど。入る時には、警備員から住んでいる人に確認の電話をしたりする。

物価

食料自給率が高いせいか、基本的には食べ物は安い。特に肉は安い。ビールも安い。水を買うよりビール買った方が安い。
その他は特に変わらない。為替のせいもあると思うけど。オリンピック当時はレアル高で、外国人からすると物価が高かったんだと思う。

文化

日曜日にフリーマーケットに行って感じたことだが、手芸・創作に関する文化は、特筆すべきことは見当たらない。
日本があまりに時代を進んでおり、何を見ても、古く感じてしまう。

日本の、手作りバザールなどに妻とたまに行くことがあるが、それを思い出しても、日本は異常なまでのクオリティの高さ。
何がそんなに違うのかを考えると、日本で出されている創作・手芸に関するもので凄いと思うのは、「純粋なクオリティの高さ」か「独自のキャラクター性・世界観を作り上げている」のいずれかだった。

特に後者は大事で、漫画やアニメの影響がそのまま手芸などに色濃く反映されていて、読み物などではないのだが、何か別の世界観から飛び出してきたような、そんなイメージを抱かせる商品が多い。
ブラジルのフリーマーケットで感じたことは、「クオリティは高いけどそれ以外の感想がない」と言うものだった。日本と比べればわかるが、あるのは世界観の欠如。
日本の手芸は漫画・アニメの要素を取り入れることで、元々のクオリティの高さに加えて、さらに他国では追随出来ない付加価値があるように思う。

人種

ブラジルは移民の国なので、様々な人種がいる。コーカソイドが目立つ。
基本的に肉が主食の国なのに、肥満体型の人はほとんど見ない。アメリカじゃ肥満体型の人がほとんどだったのに。
男は筋肉質で女性は巨乳巨尻。性がすごくはっきり身体に出ている。

自然・気候

今は冬の終わりだが、太陽が出ている昼間は半袖でちょうど良いくらいに温かい。
ブラジルは低緯度から高緯度まで幅広い面積を持つので気候は一概に言えないと思うが、僕が来ているところは大体台湾くらいの気候らしい。
一番寒いときでも0度を下回ることはなく、故にコーヒーの生産が出来るくらいには温暖な気候。

にわか雨が降ることは多いが、それ以外の気候の乱れはほとんどない。
基本的には自然災害とは無縁の国のようだ。地震なども起きないため、天災に対する避難訓練なども存在しないらしい。
地震の発生しない国ならではの建物も多く、「こんなん地震あったら絶対全壊するやろ」って言う建物も多い。
日本じゃそういう建物もしっかり耐震しているのだろうけど、地震起きない国はそんなことにお金をかける意味もないので、絶対に地震に弱い。まあ地震起きないんだけどさ。

観測史上でもサイクロンが発生したのは1度だけらしいし、本当に自然災害の心配がない国。そういうところは、災害大国日本からすると非常に羨ましい。

日本へ思うこと

ブラジルはオリンピックのために財政で無理をして、その余波が今も様々な傷跡になって残っていると推測される。
先日の国立博物館の全焼もそうだと言う憶測をネットで見た。
日本は今はオリンピック開催に向けてありとあらゆる取り組みを強化しようとしている。サマータイムしかり、自動運転タクシーしかり、東京での英会話率向上しかり。

オリンピック前に日本の総力を上げて財政出動させて取り組んだツケは、オリンピック後に間違いなく来る。
この言葉がウソになるのは、ツケなくオリンピックを迎えることが出来たときだけだ。そしてそうなることはまずない。

僕ら日本人は、オリンピック後に、どういう景色を見ている?
わからないのなら、せめて見たい景色を描いていきたい。
皆で描いた景色は、いつか現実に見えるものになるから。

自然災害と、変わる価値観と、社会インフラの維持について

今、ブラジルに仕事で来ていて、時差ボケを生かして久々に記事を更新している。

僕がブラジルに到着したのが、現地時間9/2だから、その後に、あと猛烈な台風が日本を襲ったと言うことになる。

被害に遭われた方には、心よりお見舞い申し上げます。

僕は台風に遭わなかったが、家族はもちろん、多くの友人も台風に遭った。被害はほぼ無かったことが幸いである。
あとで知るところによると、JRなどの公共交通機関は、事前に運休や間引き運転などの告知を行っていたとか。
これが最初と言うわけではないが、この対応が板についてきた感がある。

この傾向が何を意味するのか、肌で感じ、頭で理解することは、とても有益だと思われる。
少なくとも、この傾向は昔から続く慣習と言うわけではない。最近行われ始めたことだと認識している。
僕が会社に入社した10年前は、台風が直撃すると言っても、特に事前告知も無かったように思う。
10年前、ツイッターはまだ今のようにインフラレベルのSNSになってはいなかったが、インターネットは普及していた。
スマホは出たばかりで、ガラケーを持つ人が大半を占めていた時代。
情報を告知するための情報インフラは整っていたが、それを発信し、利用する側が、まだ追いついていない状態だったと思う。

それから10年。ほとんどの人はスマホを片手に、リアルタイムな情報を簡単に手に入れることが出来るようになった。
裏を返せば、情報を発信する側は、なるべく早く情報を届けなくては、情報を待つ人からすると「役に立たない」と言う烙印を押されてしまうことになる。
従って、インフラに近い部分であればあるほど、より早い情報を発信出来るような、情報戦略を取ることが多くなってきた。

話を戻そう。これが何を意味するのか?

僕の感じることは、「誰も無理をしない社会の到来」だ。
金儲けが美徳とされない、同調圧力の少ない、多様性があり、他人を認め合い、相手の事情を尊重して自分の都合を変更する、と言う、そういう方向に向かってきている。
その反対、つまり金を儲けてナンボ、皆がやってることはお前もやれ、落ちこぼれや出る杭などいらない、他人のことより自分のこと、自分の都合に合わせて他人に動け…そういう、いわゆる「昭和的価値観」は、見事にフィナーレを飾りつつある。

何がそう変えたのか?上記の価値観に疲弊し、家族を失い、孤独を苛まれた人たち、そして情報を発信する武器を持ち、社会的な報復が可能になり、個人個人の意見が発信出来るような情報インフラが整った、現代に生きる一人一人の思いだ。
つまり、情報インフラと言う武器が、情報技術と言う武器が、昔の価値観を壊した。

台風でピザを配達するように強制されたバイトたちも、今は情報インフラを武器にして会社と戦うことが出来る。
それがあればこそ、会社は常に従業員を気遣わねばならない。従業員の安全、暮らしを優先し、「台風なんだから無理しないていいよ、休みな」と言う社会である。
これは何をもたらすか?
自然淘汰だ。
従業員を酷使することでしか利益を産まない会社は、軒並み淘汰される。上記のパラダイムシフトからすれば、当たり前の話だ。

しかし、物事には例外が存在する。
今回の災害級の台風に対し、誰もが「休もう」と思えるのは良いが、それでは社会が保たれない。
台風の被害を抑えるために、危険を承知で社会インフラを支える勇敢な人たちは、本当に誰もが支えてあげないといけない。

電力・水道・ガス・交通・建設、それらの社会インフラが、災害によって甚大な被害が被らないように、一人一人が考えて行動しないといけない。

具体的には、社会インフラの維持に携わる人は、何もない日は人一倍休めること、だ。
よくある話で、トラブルのないサーバの管理者が暇だと思われて別の仕事に回された挙げ句、トラブル時には誰も収拾をつけれなくなった、とかいうあのテの話だ。
有事の際に人一倍、身を粉にして働く必要のある人たちは、有事でない時は人一倍休まないとバランスが取れない。

これからロボティクスの時代が到来するが、上記の「誰も無理をしない社会」の実現に向けて、ロボットがうまく働けるようなインフラ作りも、今後具体的に検討されていくことだろう。

企業がこの先生き残るには

非常に首肯出来る記事。僕も白書を読んで、似た感想を抱いた。

危機感を煽る、程度ではたぶんどうにもならないレベルまで来ていると感じる。
何故かと言うと、この記事でも言及されている通り、経営者の高齢化と、彼らが築き上げ、得てきたものがITによるものではないものであり、それを捨てることが今までの否定に他ならず、自分の過去を否定してまで生き残るよりは、「自分の出来ることはした上で見事に散りたい」という発想があるから。

僕も最近は、一人の息子の親として、また何人もの部下を独り立ちさせる上司として、未来を作るということを愚考しているのだけれども、未来を作るということは、他の世代に判断を託すということに他ならない。自分の判断で人を動かす、のではなく、自分以外の人に判断を委ねる。 

さて、高齢になってきた企業経営者や、その幹部たちは、自分たちよりITに詳しい若者に、会社経営の骨格である部分を、変革させる度量があるだろうか?

僕は一応大企業の末席にいる立場だと思っているが、そこでよく見る光景は、

おじさん「若者よ、チャレンジせよ!良い企画を立ち上げて提案してくれ!」
若者「こんな企画を考えました!ITを駆使した新しい業務改革です!」
おじさん「これをやってどういう効果があるの?費用対効果は?なんでそんなに費用かかるの?これを実施して本当に効果があるかどうかの裏付けは?現場はたぶん反対すると思うけどなあ、ちゃんと裏取りした?」
若者「…」

典型的な、若者のやる気を削ぐやり方である。

リスクとは、無駄金になることを承知で企画を実行することでは?

成功することを前提として企画を立ち上げ、成功を前提として計画し、それらをもって稟議を通す、というプロセスが、いわば失敗を内包した企画を通さないそのプロセスが、社内の取り組みからモチベーションを奪っているのではないか、と思う。

だから、高齢化した経営者たちが、失敗プロジェクトを企画時点から容認することが出来るか、というシンプルな課題が、企業の分け目であると僕は考える。