身の丈

自分の身の丈について考える。
自分が背伸びをして目標に到達出来るかどうかは、自分の身長を知り、目標に到達している他の人の背の高さを知り、その差を知ればこそ。

最近、役員の方々や、役職のかなり上の方々と食事をする機会があった。
僕は思った。同じ人間である。ただ、とても体力がある。「休む」ことをしているように見えない。すごく働いている。しかし、食べる量は同じだし、酒を飲む量も同じ。話す速さも同じだし、理解出来ないことを話しているわけでもない。相対して恐れを抱くようなことはなかった。

僕はどうだ?僕は体力に自信があるわけでもない。疲れたらすぐに休みたい。働く量はそこそこでありたい。何が何でも金を儲けて成功してやる、なんて考えない。家族と過ごし、アニメや映画などを見ながら、ゆっくりと過ごす日常を犠牲になんてしたくないし、それを犠牲にして「成功した」と社会的に言われている人の幸せとは一体何なのだろうと思う。

他方、自分に出来ないことの憧れは多分にある。人が到達することの難しい絶景で写真を撮ってみたい。誰もが唸るような綺麗なCGを作り上げてみたい。ファンがつくような絵を書いてみたい。自分で楽曲を作ってアレンジされてみたい。

でも、どんな願望も、今の自分の環境を壊してまで手に入れたいとは思わない。

つまり僕は現状に満足してしまっているのだ。
それが自分の進歩にトドメを刺してしまっていることはよく理解している。

だがそれでもなお、「今の生活を犠牲にしてまで自分を進歩させることの意義」を理解出来ない。
生活がとても苦しいわけでもない。新しいマンションも買った。車はちょっと古いけど、まだまだ走れる。子供だって幼稚園に通ったばかり。友人たちにも子供が生まれる頃だ。

そんなありふれた、平凡な幸せに満足することを「停滞」と言うのは、正直なところ理解が出来ない。羨みや僻みの産んだ、歪んだ認識の産物だと思う。

もちろん、僕だって進歩したい。ただ、それは今を犠牲にしてまですることではないと言うだけだ。
僕の息子はこれからどんどん大きくなる。もうオッサンである僕なんかより、もっと早いスピードで成長するだろう。
僕は息子の成長をサポートする。自分にできなかったことを息子がしてくれるならそれで満足だ。息子には息子の人生がある。父親である自分とは違う。3歳の息子の未来は無限大だ。
こうして人類は続いていく。決して、個人の成長だけが人類を継続させるわけではない。