副業が当たり前の世界になったら

アメリカ出張漬けで7kg太った身体も、4kg減というところまで戻した。今までの人生の中で、こんなに体重の増減のあった1年間はない。
それが原因とは思えないが、最近どうにも頭の回転が鈍ったり、記憶の引き出しが重くなったりすることがある。さらに言葉が出てこなかったり、思考が止まってしまったりなど。
単なる老化に伴う現象にしてはちょっと顕著なので、同僚に相談してみたところ、それは脳のオーバーヒートだという。
丁寧にURLまで教えてくれた。なになに、「ぼーっとする時間が大事な理由」ふむ、確かにぼーっとなんてしていないな。いつも。

僕はぼーっとするのが苦手というか、やり方がわからないタイプの人間である。
何もすることがなければ思索に耽るし、何かすることがあれば何かしてしまう。
電車やバスで何もせずにじっとしている人が正直羨ましいくらいだ。

時間は勿体無いと感じる。有限な時間、効率よく使わないと、という意識は確かにある。自分に甘くて、よく怠惰な使い方をしてしまっているけれど。

通勤電車では図書館で借りた本を読み、音楽を聞き、気になることを調べ、英語の勉強もし、LINEなどで友人とも会話する。
会社では当然頭はフル回転。自分のタスクは何か?うまく仕事をこなす戦略とは?予算目標達成に対して取りうる施策は?など、戦術的なことから戦略的なことまで常に考えている。疲れて当然か。

帰宅するのも大体は遅いので、晩御飯を食べてすぐに寝る生活。
糖分は抑えるよう意識しているが、取らないと余計頭が回らなくなるので、疲れを感じたら取るようにしている。

うーむ、仕事はやりがいもあって楽しいが、なんというんだろう、それだけしていることに物凄く危機感を覚えるというか。
頑張っている・・・という強い認識はない。仕事を取ってきて残業代に変えているという意識のほうが強い。つまり、金儲けをするために、仕事を取ってきている。

ところで、最近こんな本を読んでいる。

ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か

ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か

少し古い本だが、非常に面白い。
僕の所属している会社が製造業界ということもあり、非常に身近に感じられる描写が多い。(特に最近アメリカ出張をよくしていたし)
この本での一貫したコンセプトは、「会社の目的は利益を確保すること」と謳っている。

個人はどうか?

今この激動の時代において、未だに「いやー、金儲けなんてまったく考えてないっすねー」と言える大人がどれほどいるか?
よっぽど安定した職業についているか、あるいは自分の行いが先行して現実があとからついてくるタイプの大人しかいないのではないか。
つまり、いかにサラリーマンであっても、金儲けのことは常に考えている。

「個人が仕事をするのは、生活の基盤を支える金儲けのためである」

これに否を唱える人はいまい。

であれば、必ずある一定の金額で打ち止めになる残業代にこれほど頼る理由は何か?簡単だ、他に金儲けの手段がない、あるいは手段があっても実行出来ない環境にいる、ためだ。
前者は教育のカテゴリに属す問題だが、後者は就業規則に属す問題だ。

こう考えてみよう。

テレワークの推進で、IT技術を駆使して働き方を改革しつつ、GDPを押し上げるような生産性の高さを実行し、日本の埋没している労働力をより強く引き出そうというのが、昨今の時代の流れである。大いに結構。

テレワークがかなりの企業で実施されると何が起こるか?部下が一斉に自宅で仕事をし始めた時、何をもって「お前はよく頑張った」と言えるか?
自明だ。自宅で仕事をした成果だ。
テレワーク時代において、「お前は成果はあまり出してないけど、皆に協力する姿勢はとても評価出来るぞ」なんて評価、物理的に不可能だ。なぜなら、その「姿勢」を見ることが出来ないんだから。
つまりは成果主義の再来である。しかも、失敗した過去のように中途半端なものではなく、「成果でしか判断出来ない状況」が本当にやってくる。

ここからの視点は2つに分かれる。一つは非管理者、もう一つは管理者だ。

非管理者の目線で見よう。今までは時間を売る形で会社への貢献を成し得ていた。成果という概念は曖昧で、管理者が定めた案件やら目標やらを、「管理者が如何に到達するか」が非管理者から見ての労働基準だった。
成果が曖昧なのは、管理者が目的を達成する上で、個人個人の役割を流動的に変えているからで、状況に応じて仕事を人から奪い人へ与え、人を増やし人を減らし、そうして管理者は管理目標を達成してきた。
そのやり方は変わらない。だが、「頑張っているけど評価される」という梯子が外され、成果を出さねば評価もされない、成果を出そうとしても残業という概念がないから自宅での労働時間だけが伸びていくという負のスパイラルへ陥る。

他方、成果に対して貪欲な、最大効率で結果を出す社員はどうか。つまり、周りから見て、「なんであの人、休憩したり同僚とおしゃべりしてる時間が多いのにちゃんと結果出せるんだろう」というような社員。
対照的ではあるが、この社員はテレワーク時代においては「時間が余る」。課された成果はすぐに終わる。物理的に束縛される会議も少ない。自分の時間が多い。となれば成果は出し、時間も余る。

さて、管理者の目線ではどうか?
僕が、テレワーク時代に最も難しい局面に直面するであろうと考えているのが、管理職の仕事だ。今までは仕事の状況によって人を組み替えていた。「おいお前、ちょっと月1割ほど、あの案件についてフォローしてくれ」など。
人に対しての曖昧な命令で良かった。だがテレワーク時代はどうか?自宅で仕事をしている社員は、管理職に対して成果を報告する。状況ではなく、成果を報告する。(進捗状況把握のSkype会議などは今は横においておこう)
管理職はその成果を評価し、次に振る仕事を判断しなければならない。複数人部下がいれば、成果が上がってくるタイミング、成果の質など、様々なパラメータがあり、まさに管理の名に相応しい仕事が待っている。
そういう仕事の捌き方になると、管理職は部下のアイドルタイムを少なくするため、「部下の成果」と「次の仕事」と「目標達成のための方法」を常に組み替えながら働く必要がある。
単に役職のついているだけの管理職には辛い時代になるのではないか?

残業代という概念のない世界、上記のような各人の状況で、何をもって給料を適切とみなすか?成果以外にありえない。
もし成果が給料の基準にならなければ、優秀な社員は必ず虚偽報告をしてくる。「あの仕事はちょっと時間がかかっていて・・・(もう終わってるけどね)」。僕がもし優秀な社員ならそうする。働けば働くほど損をするのだから。

ここでもう一歩進んで考察する。各々の仕事のやり方、余裕、逼迫具合などが変わることを見てきた。しかしながら、日本社会はより効率の良い社会を求めている。
優秀な社員、つまり高いスキルを持った社員には、より多くの仕事、否、より高度な仕事をしてもらいたい。
しかし殆どの会社は副業を禁じており、一方で優秀な社員は副業禁止で、しかも成果主義になったことによる給料減に鬱憤を募らせている。
となると何らかの方法で別の収入源を探したくなるというのが人情。そこへ社会が「副業推奨」の福音を鳴らす。それが天使のラッパに聞こえる社員は探すだろう。

しかし副業レベルで何が出来るのか。サイドビジネスはそれほど玉石混淆で現時点でも色々ある。
だが、肝心なのは「副業推奨」が社会として解禁された点だ。つまり、他の会社も、「副業でいいからうちに貢献して」と言えるようになる。
しかも成果主義である。「誰が何を」ではなく、「何を」だけになる。会社からしても、「このスキルでこの仕事をいつまでに完遂させてくれる人募集!」という目に見えた成果を要求するようになる。

会社が成果を求めだす。目標達成のために。会社の利益のために。

ここで終わりではない。もう一歩考察を進める。
そんな時代が到来したときに、副業ビジネスが盛んになり、会社が副業で納品される成果物によって動くだろうか?
僕は違うと考える。そういう時代になれば、会社として行える最も効率の良い方法は、成果を部品として組み上げることによって自分たちの目標達成が出来るようなビジネスへ転換することだ。
会社の管理職は目標を定める。
従来は、そこから部下へ仕事をブレイクダウンした。
しかし、部下から上がってくるものが「成果」であれば、それと同等の「成果」をすでに提供している会社から納品してもらったほうが早いのではないか?
例えば、僕らSEは、部下にプログラムを組むことを要求し、成果物を提出してもらう。
果たしてそれは、部下でなければならないのか?

否、僕らSEは、ずっと昔から、それに対する解答を実行し続けている。請負業者だ。
請負業者は決められた仕様のプログラムを作成する義務を追う。
テレワーク時代において、請負業者と、上記の「成果を求められる部下」との違いは?

もしピンポイントの「成果」を2日で納品してくれる会社(あるいは個人事業主)がいれば、費用対効果を見て、それを求める方が効率的という判断になるのではないか?

そうであれば、正社員の仕事は「コーディネートすること」へと変貌していく。
管理職が目標をブレイクダウンし、部下がそれを仕事として受け取る。部下はとにかく何らかの方法でその仕事に対する成果を見出す。
それが自身の時間を削ったほうが安上がりであればそうするし、ほかから流用できる成果があればそれを使う。
自分でやったら1週間、金額にして25万円と言う見積もりであれば、ほかからの流用で10万円で事足りるのであればそうしたほうが結果的にはWin-Winだ。

時代の流れは変えられない。
どれだけ理由をつけても、ほんの少し、歴史の時計の針の進みを遅く出来るくらいが関の山だ。