苦労すべきものとそうでないもの

オレも苦労したからお前も苦労しろ!と言う理屈 - 警察官クビになってからブログ

「プロなんだから、ちゃんと常に勉強してろよ」という言は、対象によっては理不尽を孕んでいる。

例えば僕はユーザー系子会社で働いている末端SEだが、「定時内に、与えられた仕事さえやってりゃいい。向上しないのは会社の教育の問題」というスタンスのやつには、正義は感じない。

自身の向上心の無さを会社の教育制度のせいにするやつは、どんな教育制度があっても向上しない。
畢竟、教育というのは、教育される側にも向上心があって始めて成り立つものだと思う。
向上心を芽生えさせるのは教育ではない…と僕は思う。適切な言葉は見つからないけど、僕はそれは、親が子供に教えることだと思ってる。
子供の興味を見抜き、その分野に関する教育を施し、一流になっていく。そういうものだと思ってる。

「オレも苦労したんだから」の論は、「オレもこの道でやっていくためには色々勉強が欠かせないからしっかりついてこいよ」という意味になると、とても自然である。

しかし、技術が発達してるのに、上記記事のように、「地図くらい読めるようになれよ」とカーナビを奪うのは、それはまた筋の違う話だ。
「地図くらい読めるようになれ」というのは、あったほうが良い技能だと思うし、そのために色々苦労するのは無駄にはならないと思うけど、それが時と場合を選ばない場合において、ネットでよく見るネガティブな意見の対象となる。
Excelで自動で演算してくれるけど、自分でも紙とペンで検算して確かめろ」の論も相似である。自身で紙とペンで検算出来る能力は非常に有用だが、全ての業務、全ての場合において適用しようとするとき、それは理不尽だし、とても非効率となる。

だから、そう、履き違えないで欲しい。
苦労それ自体には悪い意味合いはない。楽をするために苦労をすること、つまり人類の繁栄に寄与するためには、汗を流さない方法など存在しない。