裁量労働制について思うこと

裁量労働制の最近の話題を追っていると、なんとももどかしい気分になる。

定額働かせ放題だのなんだの、また自分が経験した裁量労働制はこのようなもので悪用されて云々など、とにかく批判的な内容に尽きる。

じゃあ働いた分だけ金を払えば良いのかと言うと、元々は過労と生産性の問題から始まったと思うわけで、残業代を払えば良いとか払うべきじゃないとか、そういう話をしてるわけじゃないと思うんですよね。要は、如何に「労働時間を抑えて」「賃金を向上させるか」なので。

「この裁量労働制は定額働かせ放題になる恐れがある!」→「それはいかん!ちゃんと働いた分だけ金を払え!」という単なる脊髄反射のように見える。
もちろん、裁量労働制や過重労働で痛い目を見てきた人たちには他人事ではない話だし、だからこそ反対するという気持ちもわかるんだけれども、本質は冷静に見ないといけない。本質は感情ですぐ曇って見えなくなってしまう。


また、欧米ではうまくいっていて云々というのも割と良く出る話題で、そういう話は結局雇用を取り巻く制度法律の問題とか、社会福祉の違いとか、色々出てきて、「そのままもってこれない」とかいう結論になって、たちまち空中分解する。そりゃそうでしょ。

裁量労働制を導入する背景はともかくとして、その制度を成り立たせるためには、必ず前提条件が必要になる。

  • 自身の仕事の明文化
    • 総合職みたいな、あらゆる仕事や雑務を行う職業は、そもそも「自分の仕事とは何か?」を答えることができない。「上から降ってくる仕事が自分の仕事」と言う定義だからだ。これを掘り下げていくと、雇用契約まで行き着く。あるいは、「仕事を作り出す人」と「与えられた仕事を行う人」の二分化になっていく。
  • 成果が時間に依存する職業への適用禁止
    • 当たり前だが、レジ打ちのおばちゃんに裁量労働制なんて適用出来る理由は皆無である。逆に考えると、仕事を終わらすにあたって、その方法が選べて、選ぶ方法によって仕事が終わる時間が変わるものは、裁量労働制の射程内だと乱暴だが言えるだろう。(そう考えると、派遣と裁量労働制は非常に相性が悪いと感じる。)
  • 仕事の成果の明文化
    • 与えられた仕事には、「何が出来たら完了なのか?」と言う定義が必要。この定義が主観的だと、日本人なら間違いなく無限に働くことになる。完璧主義だから。「このくらいでいいや」と対極にいる民族だからね。


結論出さないままに裁量労働制を無理やり導入したら何が起こるか?

喧伝されている通り、悪用する経営者や管理者が続出し、従業員は疲弊する。過労死は起こり、生産性も給与も上がらない。経済は相変わらず停滞し、悪貨は良貨を駆逐する。

今は、分かりやすい結論に対して、デモが行われているわけだ。

しかし、裁量労働制前に上記の前提条件が満たされることは、有り得ない。理由は、今の、一様だが多様な職種に対して一つ一つ整理していくのは現実的な時間で終わる仕事ではないからだ。

つまり、導入が強行されたあと、正しく運用されるような方向になるように仕向けていく必要がある。

それ一役買う、と言うか主体的に動くべきは、僕たち労働者だ。
法や制度を作るのは経営者じゃない。民だ。
民が行動で示さないからこそ、悪用に対して泣き寝入りをするしかなくなる。
民なくして企業も国家も成立しえない。僕たち労働者は、もっと自信を持っても良いんじゃあないか?

僕たちが出来る行動は、悪用する経営者や管理者がいて、歯止めが効かない場合、速やかにその場を逃げる。離れる。退職する。転職する。

そうした主体的な逃げこそ、労働市場の改革になる。
僕たちにとってこの昨今の流れは、大きなリスクでもあるが、大きなチャンスでもあると感じるのだ。リスクの山を超えるとそこにはチャンスの海がある。時間があれば山を迂回するルートも見つかるかも知れないが、変化の早い現代、時間があると感じる労働者はどれくらいいるだろうか?

願わくば、この裁量労働制の根幹にあるものが、人件費と経費を削減する方法論に終始しないことを。