不便なものをあえて使い続ける人たちへ感じる違和感

便利を享受するのに理由は要らないが、不便を受け入れるのには理由がいるのかね。

例えば、決済に便利なクレジットカードを「自分の使った金額がわからなくなるから」といって使わない人たち。

例えば、読書に便利な電子書籍を「自分で所有している感覚、読み進めている感覚がなくなるから」といって読まない人たち。

例えば、タスク管理に便利なクラウドで複数人で共有出来るタスクツールを「自分のノートに書くようにすぐに気軽に書けないから」といって使わず、いつまでもオフラインのノートで書き続けて共有を拒む人たち。

例えば、コミュニケーションに便利なラインなどのツールを「情報がどこに漏れてるかわからないから」といって、キャリアメールを使い続ける人たち。

例えば、世界と繋がるのに便利な英語を「自分たちは日本人であり、ここは日本なので、英語なんて学ぶ必要がない。日本に来る外国人が日本語を学んでくるべきだ」といって英語を学ぼうとしない人たち。


一方、便利を享受する人たちの言葉は簡単。

「便利だから」。

そして、しばらくすると皆、決まってこういう。

「もう昔のようには戻れない」。

技術史はこの繰り返しで紡がれてきた。

あらゆる主張は、大抵どちらかに分類される。
時流に従っているか、抗っているか。

抗う者は気付かない。知らず知らずのうちに、便利を選ぶ人たちに生かされるようになるということを。

世界文明における技術の千年史―「生存の技術」との対話に向けて

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