意識高い系がダメになる構造
中学生の頃、英語の発音をキチンとしたら「プークスクス」となったのは、もはやネットスラングになるくらいにありふれた体験なわけだが、その相似形になるものが最近よくある。
実際のところ僕は単なるユーザー系企業における一介のSEであるわけだが、そんな僕には「新しい技術を取り入れたい」ことと「なるべく仕事はシンプルに、かつエレガントに終わらせるべきだ」という信念がある。
人の上に立つ立場である以上、人を動かすためには説明責任がつきまとう。だから僕は可能な限り理論武装をするわけだが、その時に感じるのは冒頭で見た「プークスクス」に近い視線だ。
「そんなものを取り入れて誰の得になるの?」
「そんなものを使えるようになるまでどれだけ苦労するの?」
「前提知識を得るための工数は確保してるの?」
「それをして給料が上がんの?」
「ああ、それはうまくいくと思うよ、ただし、メンバーみんながあんただったら、だがね」
意識高い系がダメになる構造そのまんまが、まさに僕の眼前にある。
でも僕は、自分に言い聞かせている。
「あとで困るのはあんたたちだ。現時点ではgitにガタガタ文句つけているが、巷じゃ既にデファクトスタンダードだ。時間が僕に味方しているのは明らかなんだ。場に出てるカードの強弱すら類推出来ない愚か者どもめ」
と、見下したところで溜飲は下りないし、勝ってもつまらないギャンブルだ。
知ったことの創作性はすごい日本人だが、知らないことへの適応性のなさもまたすごいと思う。
つまり、知ること…これが全ての決め手だと思うんだが、これがまた奥深いと思う今日この頃だ。