日本人がバカンスを取れないのは祝日が多すぎるから
今僕は1ヶ月超のアメリカ出張中で、ちょうど夏のバカンスを取る人が多くなってきたところである。
ちょうどこの辺の話をいろんな人としている時にこの記事を読んだので、タイムリーだったので投稿せざるを得ない気持ちになった。
結論はタイトルの通り。
アメリカ人に聞いてみると、公式に定められた連休と言う連休はあまりない。独立記念日とクリスマスくらいのもんで、サンクスギビングデーとかレイバーデーとか色々あるけど、別に国が定めた休日じゃないとのこと。祝日も、日本ほどそんなに頻繁にあるわけじゃない。
でも有給休暇は、労働者の権利として確固たる地位を築いており、彼らはもちろん権利は行使する。
換言すれば、自分で休みを取らねばならない環境が整っていると言うこと。国単位で定められた祝日が頻繁にない故に、自分の有給休暇をどう取るかは個人任せ。当然まとまって休みを取って家族との時間や自分の趣味にしっかり時間を費やす。人生のプライオリティを仕事においていなければ、非常に合理的な話である。
一方日本では、非常に祝日が多い。もっと休め!と言わんばかりの祝日の多さで、いろんな祝日の話をしたら、アメリカ人が「日本は祝日とか連休とか多すぎるだろ」とか言ってくる始末。
そこでハッとしたが、日本は祝日が多いゆえ、自分たちの有給休暇を使いにくい状況が生まれているのだ。逆説的だが、割りとあると思う。
連休があった上で、さらに有給休暇を重ねることが出来るだろうか?せいぜい出来て1~2日だろう。それも合わせれば1週間くらいにはなってる。
だから、日本人がよく「欧米は1週間とかバケーション取ってていいなあ」とか言ってるけど、客観的に見りゃ日本人も「日本人はいいなあ、国としての休みが多くて」とか思われてる。
日本政府は有給休暇取得率を高めさせたいみたいで、その一方で「山の日」なんて言う新たな祝日を作ったりしてるわけだけど、アメリカの事情を聞いて思った限りでは、そうした政策が既に裏目に出ていると思う次第だ。
一斉に休める日を多くしてしまえば、それだけ個人としての休みを取る機会は失われる。
個人としての休みを尊重するなら、国としての祝日はもっと少なくていい。
多様性は差別的思想を駆逐する
アメリカにいてて感じることは、とにかくフラットであること。
年齢・人種・背格好・服装・話し方・振る舞い…もちろん、文化的に、「こういうのがベター」とされるものはあるだろうけど、それを差し引いたとしても、フラットである部分が多い。
「アメリカは差別を感じる国だと思っていた」というのは結構よく聞く事なんだが、そう感じることは全くない。
もちろん自分の観測範囲なのでたかが知れているが。
思うに、過去に差別にまみれ、差別に苦しんだ歴史があるからこそ、差別をタブー視するような社会になりつつあるのではないだろうか?
日本でも、昔の差別のことはタブー視されていることが多々ある。僕が子供の頃は部落などの話は時々聞いていたが、今はほとんど聞かない。これはタブー視された結果、地域による差はフラット化されたものだと考える。
日本は多様性がない。だからこそ、差は如実に現れ、すぐに一線が引かれてしまう。
いずれ日本も移民…と言う言い方はあまり好きじゃないが、好きで日本に移住してくる外国人が増えていくことだろう。賛成とか否定とかそういうもんではなく、事実として増えていくだろう。
極端な話、純日本人がマイノリティになった社会において、差別がまだ残っているかというと、残っていると思うが、それは純日本人による選民思想的な何かでしかないと思う。
畢竟、差別的思想というのは、多様性の前では鎧袖一触である。
上司が進捗率を出せとうるさいからExcelのタブの色で総計と完了率を出すようにした
とあるシステムのデータ移行をやっているのだが、上司は全部で90近くあるテーブルの進捗率を知りたいらしい。
データ移行の大元はExcelで、ここに記載されたデータがSQLServerへ最終的には移行される。
Excelファイルは複数あり、その中に、各テーブル単位でシートが存在する。
終わったシートを色で管理しているが、上司はどうもすぐに数値を知りたいらしく、僕はそのたびに全部のExcelを開くのも馬鹿らしいので、管理好きな上司のためについカッとなってスクリプトを書いた。これで、いつ言われても1分以内に回答出来る。
import openpyxl as px import glob,os FileCount = 0 CompleteCount = 0 for r in glob.glob('*.xlsx'): fname = os.path.basename(r) wb = px.load_workbook(fname) print(fname) for s in wb.worksheets: FileCount += 1 if s.sheet_properties.tabColor is not None: CompleteCount += 1 print("\t"+s.title+":[Complete]") else: print("\t"+s.title) print(str(CompleteCount) + "/" + str(FileCount) + " = " + str(round((CompleteCount/FileCount)*100,2)) + "% is completed")
時間の切り売りの中で
安定したパフォーマンスを出すためには、習慣というのが大事だと思う。
毎日のタイムスケジュールを明確に描くことが出来、あるいはコントロールすることが出来ている人は、とても尊敬する。
例えば、今日の僕のスケジュールについて考えてみよう。
僕は今アメリカに出張中で、今日は休日である。
朝8時から駐在員の方たちとお出かけし、夕方にホテルに帰ってきた。
そこから自由の時間が出来ると思いきや、他の出張者の方が、晩ご飯を食べようと誘ってきた。
当然僕の立場としては断れるわけがないので受諾するしかないわけだ。
ここで考えよう。
16時半に戻ってきて、18時半にホテルロビーに集合となった。
つまり、丸々2時間の自由時間が出来る。逆に、2時間の中途半端な時間しか出来ない。
海外ドラマを見るか?
仕事をするか?
勉強するか?
ネットサーフィンをするか?
僕には選択肢がある。
だが、それは自由な選択肢だが、限られた時間である。1時間50分もすればお出かけモードにならねばならない。
本当に有能な人なら、こうした僅かな時間も無駄にせず、何らかのことをするのだろう。
でも僕は有能でもなんでもない。何かに集中できるようになり、打ち込み始めた時にすぐに出かけなければならないような時間は、僕の中では自由な時間とは呼べない。
僕が考える自由な時間というのは、始まりも終わりも自由に設定できる時間のことである。
始まりも終わりもコントロール出来ない時間など、僕にとっては中途半端な時間でしかない。
少しでも休養を取りたい。リラックスした時間を得たい。
自分の時間は切り売りされていると感じる。
月給の額の妥当性
IMF 日本は労働市場の改革進め消費税15%に | NHKニュース
労働市場の改革というキーワードでいくつかサイトを見てて考えた。
長時間労働の抑制がうまくいかないのは、仕事のやり方もさることながら、生活残業を目当てにしている部分もあることは否定出来ない。
つまり、いくらワークライフバランスの側面から改革したところで、得てる糧の側面がそのままだと片手落ちになるのだ。
目を横に向けると、花畑が広がっている。だけど自分はそこへの一歩を踏み出すことが出来ない。そんなジレンマが待ちかまえてる。
生活残業をアテにしないといけないというのは、つまり基本給が低いと言うことを意味するわけだが、そもそも僕らがもらっているこの給料、誰が妥当性を判断している?
どこの会社も、新卒の場合は大体は基本給は20万プラマイ4万程度で、面白いぐらいに一律だ。
まあ平均20万だとしよう。
誰が、新卒の値段が20万だと規定している?
どこの会社で、誰を雇っても、平均20万になる理由はなんだ?
定昇の上がり幅は会社によって差はあるだろうが、一年で10万も上がるところはまあないだろう。
僕は、労働市場の改革をするのであれば、この疑問に答えることが何より先だと考えている。
会社が得てる売上、利益なんて会社によって差があるはずなのに、何故従業員の給与は一律に近いのか。
従業員の最低限の生活を保証する金額が20万か?
その割には、税金や社会保険の値上がりと比例していないような体感がある。給与から引かれる分が多く、25%くらいは差し引かれているような状態だ。江戸時代なら一揆レベルだぜ。
ベースアップなどの交渉、いわゆる春闘というのか?僕は詳しくないが、あれもよくわからない。全会社を代表して行う横断的な組合的な活動なのか。
あの活動と、基本給の見直しは関係している。それはたぶん間違いないだろう。
つまり…やはり基本給は会社によって定められているというより、社会的に決められている可能性が高い…?それが暗黙的なのか明示的なのかはともかくとして…
個々の新卒のレベルはそれぞれ違うが、大学教育の内容と社会が求める力との差を加味した期待値としての給与、それが新卒の最初の基本給か?
筋は通る。となると、ここからは教育の世界になる…
あくまで教育と労働市場を連動した状態を貫くか、あるいは完全に切り離すか。
…考えてみれば、この構図は、中高一貫に似ている気がする。
学校教育と労働市場が、完全に続くものとして考えられている。昔はそのほうが良かった?中流階級を増やして、社会全体のレベルを上げるには?
平に均された環境の質の底上げは飽和状態。
ならば次に打たれる手は…なんだ?
労働市場の改革という御旗を掲げ、すぐに本陣に切り込むか?
具体的にどこを改革するのか知らないが、全体を知らずして切り込むのは玉砕だ。
外国人労働者の受け入れ、マイノリティの受け入れ、女性の活躍…切り込むメスはいくつもあり、それぞれが未来にとって非常に重要なファクターであるが、今の日本社会は切られればすぐに患部を塞ぐ過痛感社会だ。
まずは麻酔が必要だろう。
「ハマる」ということは目的と手段が逆転している状態のこと。
最近はノートを取ることにハマっている。
周期的に、こういうアナログ的な事にハマるのだ、僕は。
ノートを取ることの何が面白いか?別に面白くはない。
ノートを見返すこともしないし、記憶できることをあえて書いてる。もちろん、忘れることもあるから、忘却予防にもなってるけど。
でも、ハマるってのはそういうことじゃない。
目的と手段が逆転している状態のことをハマるって言うんだ。僕にとっては。
つまり、ノートを取ってその後何がどうなるか、なんて問題じゃない。
ノートを取ることそのもの、ペンを持って文字を書くことそのもの、その手段自体にものすごく楽しさを感じているんだ。
安いペンでも高いペンでも、ボールペンでもシャーペンでも、自分の好きなように文字を書ける。そのことがとても楽しい。
思い返せば、昔から僕はそういう傾向があった。新しいノートとペンを買っては、黒板の板書を丁寧に書き取り、自分なりの注釈や図解をつけたりすることそのものが楽しくなる時期。
そういう時は、書いた結果何がどうなるかなんて考えてない。
いや、考えてはいるけど、それすらも後付の理屈でしかなかった気がする。
書くことでより記憶が定着しやすくなる、忘れないように記憶する、新しい文字を覚える、などなど。そんなことは後付の理屈、あとからついてきた現実でしかない。
ハマるってことは目的と手段が逆転している状態のこと。だからそういう時に、ハマっていることの利点を説くことは自分に何かを言い聞かせてるってことになる。要注意だ。