自分に関する自分の決定に責任を持つこと

コミュ力高い人しか採らなくなったら会社が潰れましたみたいな話が最近あったけど、あれの相似形はどこの会社でもあるんじゃないかな。

つまり、管理職の方が多くなったら会社が回らなくなった、って感じの。

僕は今自社に対して強くそう感じている。
何故なら、実務をするメンバーよりも管理をするメンバーのほうが多いように感じるから。
実態はどうか知れない。でも、平社員より役職持ちの方が多いのは確かな気がする。

開発は外注、運用実務は平社員、という、まあユーザー系企業にはありがちだと思う体制だと思うんだけど、問題は、年齢層の上昇に伴って、管理を仕事と「しなければならない人」が多くなってきたって感じかな。

キャリアパスの選択肢の無さの結果、これに尽きにけり、って思う。

僕も役職は持ってて、部下やら後輩やらを導く立場に云々ということを言われるけれど、その言は、全くスケールしないことに誰も気付かない。

一般的に言わせてもらえば、「立場が上の人は下の者を導くべきだ」と言う言葉はスケールしない。
組織が逆ピラミッドの構造になったときに、破綻するからだ。

多様性について考えてしまうと同時に、「自分の仕事とは何なのか?」と言うことを強烈に考えてしまう。
今まで実務をしていて、さあもう10年もやってて、細部まで理解出来てきて、もう何でも出来るぞってときに、管理の仕事のほうが多くなるという現状。

得意なことをさせた方が生産性が上がるという事実に相反する組織の活動。

さて、僕はどうすべきだ?
決まってる。言葉を重ねず、ただやりたいことをやるだけ。
自分の仕事が何なのか考えてしまうってことは、定義されてないnull状態だ。
好きなことをやればいい。
理屈と膏薬はどこにでもつく。
誰が言ったか、何を言ったかは関係ない。
何が決められてて、何が決められていないのか。何を自分で決めれるのか。
決定には責任が伴う。
誰も、他者の言動を縛るような規定や方針を決定したがらない。
だから自分のことは自分で決める。自分のやりたい仕事は自分で探す。とてもシンプルなことだ。

何故事務処理に終われるのか?

人員に対して案件量が多い。
予算に対して案件量が多い。
一つの案件の額の振れ幅は、40万から2000万くらいまであり、一人当たり毎月4~5案件は常に抱えている状態。
案件の受注処理、検収処理も毎月ある。
定型的な処理といえども、いわばハンコ押印ワークフローなので時間がかかる。

一つの案件の受注処理に2~3日の調整事項、事務処理が発生するとする。
一つの案件の検収処理に1~2日とする。

同じ月に受注1件、検収1件があるとする。
それだけで3~5日の事務処理が発生する。
間接業務である。

また、各案件の進捗確認、Todo確認、案件半ばでの調整事項が各案件に付随する。そうした付随工数を1案件につき8時間/日としよう。
4~5案件抱えている状況だと、3日~5日ほど時間が取られる。

上記状況だと、間接業務だけで6日~10日が割かれている。
営業日が月20日間だとすると、実に30%~50%である。

残り50%~70%を全て実務に費やせるか?
否。まず、システムの問い合わせ運用業務や、他システムの突発的な打ち合わせなど、非定型業務が存在する。
概ね平均、月30時間ほどとしよう。残りの時間が18%ほど削られた。

また、社内の業務も存在する。月10時間。9%削られた。

これで残りは13%~47%になった。

驚くべきことに、案件責任者は基本的に仕様詰め、設計、テストなども行わねばならない。
つまり案件の実業務とも言えるものだが、上記の通りの状況で時間を捻出しなきゃならない。

リリースするものに対しては、当然さらなる調整事項が増える。

エトセトラエトセトラ。

かくして、日本のSierには、身になることをする時間がほとんど与えられない。Q.E.D

残業を減らすと言うのは実のところ現実的ではなく、金に関する仕事が多い以上、どうにかするべきは案件の多さ、つまり大量の仕事を如何に捌くか、という視点に興味が沸いて当然である。

単純な発想として、いくつもの小案件を束ねて、大きな案件とし、管理する案件を減らしてはどうか?

これは案件を回す側にとっては良いアイデアだが、意味のある予算の使い方と言う面から見れば難しい。

本来20案件のものを束ねて1案件とする。
金を支払う側は、例えば2億円の用途が数多ある「諸改善」というものになり、一度に2億円の決済をするための役員への説得でまず失敗する可能性が高いだろう。

また、案件に対する成果物も明確ではないため、検収条件も一捻り二捻りも必要である。

いずれにせよ、タンマをかけれる状況があるわけではなく、全てがスピーディーに進んでいるこの世の中で、自分が何を出来るか考えると、どうしようもなく途方に暮れてしまうのである。

労働者たちへ。

機運は高まった。
電通の新入社員の女性の過労死は痛ましいばかりで、ご冥福を心よりお祈りする。
あんなことが起きてしまったご遺族の心象を思うと、言葉もない。もし僕の子供が大きくなって、こんなことになれば、僕は何が何でもその会社が倒産させて、復讐するだろう。自身の子供の命というのは、自分の命を犠牲にするほど、大切なのだ。だからこそ、こんな事件は許してはならない。もちろん、この事件が氷山の一角にすぎないことは承知している。

だが、だからこそ、氷山の一角が報道されたこの機を、逃してはならない。

僕ら弱気労働者に出来ることは、ただ犠牲者の冥福を祈ることばかりではない。今こそ、反撃だ。

よく考えてもみろ。この殺人の意味することを。僕らは誰もが犠牲者になりえる。
もし、君たちの上司が厳格で、暴力的で、ブラック企業を体現しているような人物であれば、その人は殺人者となり得ると言うことだ。もちろん、犠牲者は君かもしれないし、仲良くしている同僚かもしれない。

時々ネットで見かける、「もう長時間労働はやめよう」と言う言葉。

違う。今言う言葉はそうじゃない。今、我々が言うべきは、「また今月も長時間労働になりそうだなあ~~~」だ。

記憶が新しいうちに、それを聞いている人が、自分の部下や同僚も犠牲者になるかも知れないと思わせろ。

これを機に長時間労働を無理に止めることなんてするな。今こそ攻勢に出るときだ。
君の長時間労働が経営者を青ざめることが出来る貴重なこの時期に、何故長時間労働をしなくてはならないのか、長時間労働が何故なくならないのか、頭がハゲるほど考えさせてやれ。

人事権を持つ人物に聞こえるよう、大きい声で言え。
政府も働き方改革だかなんだかで、労働市場にメスを入れている昨今、自分の同僚が長時間労働をすることに対して何も思わないはずがない。

君が本当に長時間労働をなくしたいと心から思っているなら、君が自主的にストップすることが唯一の方法ではない。
むしろ君一人が抗ったところで、システムが変わらなければ、君の時間を少し止めることにしかならない。

本当の抵抗とは、我々弱き労働者の団結をもって、上層部に長時間労働抑制の仕組みを作らせることだ。

もし、「長時間労働がなくなればうちの会社は危ないよ!」なんて言おうもんなら、君は嘲笑していい。
君が自分を犠牲にして、献身的に長時間労働をしてきた会社は、その程度のものなのだ。見限れ。

もし、今回の事件に対して何も思わない会社であれば、それこそ何の後悔も抱く必要もない。見限れ。

君はほんのちっぽけな労働者かもしれないが、守るものがあるなら、今こそ戦え。

僕のこのネットの片隅での呟きが、誰かに届いて勇気となることを願っている。

スマホと人工知能

スマホ人工知能はもの凄く相性が良いと思う。

盲信と検索

「これは間違いない!」と思うことほど、検索することから遠ざかる。

盲信は盲目的確信であり、自信を裏付ける検索という行為に対して背信的とも言える。

自分の知識や常識が検索結果によって覆されるシーンは多々あるが、検索しなければ自信の世界は保たれる。

もちろん、だからこそ、疑いを持つことは大切なのだ。自分の常識を疑うこと、自分の確信に待ったをかけること。確信は停滞である、とも言える。

けれど、他人は否定するが自分が信じてやまないことが案外真実だったということも、当然ある。科学史などは特にそういう傾向が強く、実験と論証と盲信の繰り返しである。

そうした事象は、なんらかのブレイクスルーであり、今まで積み上げてきたことが根底から瓦解する。ありていに言えば「世界が変わる」。

さて、検索結果で確信を得ようとしている現在、その確信が盲信でない証拠があるだろうか?
400年前にGoogleがあったとして、「地球 回っている 証拠」などと検索しても、出るのは天動説を支持する記事ばかりだろう。

遠い未来に、過ちだった過去だとわかる今を生きている僕らにとって、絶対的真実なんていうものが数学以外ないということが唯一言えることであろう。

排他的なおもてなしという矛盾

訪日外国人、在日外国人が増えるにつれ、「おもてなしの心」と「英語を勉強しなくてはやってられない」ことは両立せざるを得なくなる。

日本が好きな日本人として、外国人に対して日本のおもてなしを感じ取ってもらうためには、日本語だけでは到底やっていけない。

もし、「日本に来るんだったら日本語勉強してきやがれバーロー」と言う人が大半であれば、その日本が好きな選民的・排他的な国民性により、日本は世界で劣勢に追いやられることだろう。
どうして、日本のおもてなしの心を他者に向けることをせずに、おもてなしの真髄を保ち続けることが出来るだろうか?

排他的でありながら、他者に対しておもてなしの心を発揮することは、論理的に矛盾する。
おもてなしの対象を日本語の話せる日本人に限っているのなら、それはおもてなしではなく、単なる同族意識の親切に過ぎない。

もし、「日本人以外にもおもてなしをしなくては、日本の良き文化を保たなくては」と思う人が多ければ、日本は今後も安泰だ。
英語教育も変わり、皆が英語を話すことに積極的になり、海外への進出だって捗っていくことだろう。

駅員に問い合わせをして必死にお互いにコミュニケーションしようとしている朝の一幕を見て、そんなことを考えた。

ロボットの未来

レシピとして表せるものであれば、ロボットによる代替が可能。
単純作業を行うだけのロボットには、新たなレシピを生み出すことは出来ない。
よって、人間の凡そ知的な生活の営みの一部として、レシピ考案はロボットに置き換えられることはないというのが今までの論。

翻って今を見れば、人工知能が発達すれば、様々な材料から適切なレシピが生み出されるようになるかも知れない。
知的創造も、ロボットの脳で可能であることが実現されつつある。

ただし、ロボットにはそれが美味しいのかどうかの判断が出来ない。
濃い味が好き、辛いのが好き、そういった嗜好は人間の多様性に根差すものであるが故、人工知能に出来ることは最大公約数の味を統計によって学習することと、ロボットの所有者の好みに合わせてカスタマイズされたレシピを作ることが臨界である。

最大公約数としての知的創造が行えるようになるのが、人工知能の第一段階。
ロボットがコモディティ化し、「個人所有」と言うことが可能になる未来から、人工知能の多様性対応が始まる。

人間の能力のアウトソーシング
それが技術史の本質と僕は思う。
決断すらもアウトソーシングした果てに残るは感覚と知覚。人間を人間たらしめているのは、思考の多様性ではなく感覚の多様性だと信じて…