発言コントロール

発言するかしないか、それは自分自身でコントロールすることが出来る。
もちろん、何を言うか、何を言わないべきかも。

だが、発言したあとの他人の言動及び思考については、コントロールが出来ない。
僕たちに出来ることは、「予測すること」しかない。
その予測精度をより高める方法は、発言の解釈の余地をなくすことと、相手の理解力に合わせた言葉を選択すること。
それでも「誤解」と言うエラーであったり、相手が「この発言をする心理は…」と言った心理戦に突入したりと、とてもコントロールの及ぶものではない。

「沈黙は金」はそうした悩みに対する快刀であり、一定の解であるが、解決策ではない。逃げの一手である。

建設的に会話を続ける方法とは、一体なんなのだろうか。

日本語は美しい

ふとこの曲、妄想感傷代償連盟を聴きながら思った。
日本語はなんと美しいのだ…

身の丈

自分の身の丈について考える。
自分が背伸びをして目標に到達出来るかどうかは、自分の身長を知り、目標に到達している他の人の背の高さを知り、その差を知ればこそ。

最近、役員の方々や、役職のかなり上の方々と食事をする機会があった。
僕は思った。同じ人間である。ただ、とても体力がある。「休む」ことをしているように見えない。すごく働いている。しかし、食べる量は同じだし、酒を飲む量も同じ。話す速さも同じだし、理解出来ないことを話しているわけでもない。相対して恐れを抱くようなことはなかった。

僕はどうだ?僕は体力に自信があるわけでもない。疲れたらすぐに休みたい。働く量はそこそこでありたい。何が何でも金を儲けて成功してやる、なんて考えない。家族と過ごし、アニメや映画などを見ながら、ゆっくりと過ごす日常を犠牲になんてしたくないし、それを犠牲にして「成功した」と社会的に言われている人の幸せとは一体何なのだろうと思う。

他方、自分に出来ないことの憧れは多分にある。人が到達することの難しい絶景で写真を撮ってみたい。誰もが唸るような綺麗なCGを作り上げてみたい。ファンがつくような絵を書いてみたい。自分で楽曲を作ってアレンジされてみたい。

でも、どんな願望も、今の自分の環境を壊してまで手に入れたいとは思わない。

つまり僕は現状に満足してしまっているのだ。
それが自分の進歩にトドメを刺してしまっていることはよく理解している。

だがそれでもなお、「今の生活を犠牲にしてまで自分を進歩させることの意義」を理解出来ない。
生活がとても苦しいわけでもない。新しいマンションも買った。車はちょっと古いけど、まだまだ走れる。子供だって幼稚園に通ったばかり。友人たちにも子供が生まれる頃だ。

そんなありふれた、平凡な幸せに満足することを「停滞」と言うのは、正直なところ理解が出来ない。羨みや僻みの産んだ、歪んだ認識の産物だと思う。

もちろん、僕だって進歩したい。ただ、それは今を犠牲にしてまですることではないと言うだけだ。
僕の息子はこれからどんどん大きくなる。もうオッサンである僕なんかより、もっと早いスピードで成長するだろう。
僕は息子の成長をサポートする。自分にできなかったことを息子がしてくれるならそれで満足だ。息子には息子の人生がある。父親である自分とは違う。3歳の息子の未来は無限大だ。
こうして人類は続いていく。決して、個人の成長だけが人類を継続させるわけではない。

1年かかったアメリカのプロジェクトももう終わり

2016年3月に初めて仕事でアメリカに来てから早1年。
この1年間は、半年近くをアメリカで過ごした。
最初はまったく慣れずに、通訳を絶対に必要としていたけれど、通訳がいない時にユーザと会議をしたりすることもあり、その辺から、「ああ、英語を身に着けないとプロジェクトが終わらない」と感じ、とは言え今までしてきた勉強がほとんど意味がない・・・意味が無いと言うわけではないが、効果的ではないとわかり、英語に対する考え方を変えてから、なんとか通訳無しで仕事を出来るようになった。

アメリカ人同僚とも仲良くなり、定時後に一緒に飲みに行ったりすることも多く、英語の勉強と言う意味では非常に良い機会に恵まれたと心底思う。
もちろん、プロジェクトも大変だったんだけど、プロジェクトの遂行よりも英語のほうが、人生にとっての比重は重たかった。だから僕にとっては、仕事より英語のほうが大事な一年間だった。

さて、僕の英語に対する姿勢はこの1年でガラッと変わった。

何を一番伝えたいかと言われれば、
頭の中での翻訳を極力やめること
である。

例外は名詞。名詞こそは、単語力がモノを言う。だからどんどん記憶していくべき。これは日本語でも同じだと思う。名詞は覚えるしかないのだ。

ただそれ以外については、聞いた英語に対応する日本語を探して・・・と言うプロセスが頭の中にある限り、一線は超えれないと思う。確実に。

例えば動詞「make」を、日本語で「作る」と言う対応表が頭の中にある限り、日常会話に苦労することは間違いない。
会話をする時に、日本語から英語にすると思うが、それをしようとして出来ないと気付くことが、最初の躓きポイントだと思う。
相手の言葉が聞き取れないことは、躓きポイントにすらならないと思う。それは単に慣れだ。何度も聞き返したりしてると聞こえるようになってくる。
ただ、「聞き取れても意味がわからない」と言う場面がいくつか出て来る。それも第二の躓きポイントである。

  • 相手の言う単語を聞き取れる
  • 相手の言うことがわかる
  • 日本語を英語に直すことが出来る

一見、これで英会話は出来るように見えるが、僕はそれは高性能な翻訳ソフトがしていることを人間がしているだけと考えるようになった。
頭の回転の早い人は、英語から日本語への変換、英語から日本語への変換を非常に高速で行うことが出来るため、恐らく仕事上での英会話は困ることがないと思う。
でも、その翻訳のスピードと、「英会話が出来る」と言うことはまた別の問題だと思う。

つまり、僕がわかったことは、単純に言い直せば、「『英語脳』と言うのを肌で実感した」と言うことだ。
英語は確かにシンプルな言語で、単刀直入な言い回しが多く、結論ありきで話す言語である。
ただそれは文法的な側面を切り取って述べているに過ぎない。英語の一つ一つの単語には、英語の学習には欠かせない「コアイメージ」と呼ばれるものがあり、それをどれだけイメージ出来るかが、英語脳の出来具合にかかっている。

英会話はフィーリングだ、と暴論でまとめる気はないが、総じて言えば本当にその通りだと思う。この感覚だけは、通訳無しで、英会話を日常的にしていないと培われないと思った。

もう1年がけでやってきたプロジェクトも終わり。これで節目である。
今の仕事でもうアメリカに来ることはないと思うが、引き続き、別のプロジェクトのフォローに回ることが決定しているため、もしかしたらまた来るかも知れない。
英語で仕事をしたり、調べ物をしたりすることは当たり前になっている昨今、自分の英語の学習は継続的にやっていくようにしよう。
僕の3歳になった息子も、幼稚園で初等英語教育をやるみたいだし、息子に自身を持って英語を教えてあげることが出来る父親になりたい。

労働環境問題における根底にある原因

労働環境の是正へ取り組む政府の動きが非常によく見えている昨今、その動きと企業の動き、さらに実際に働く従業員から聞ける声にはギャップがある。

当然、最もギャップの大きいのは従業員からの声と、企業側の施策内容だ。
電通が22時で消灯することを実施したのとは対照的に、従業員は持ち帰り仕事をしているだけ、早出をしているだけ、など、施策がポーズに過ぎないにしてももうちょっとやり方があるだろとツッコミたくなるような雑さであるが、つまりは残業抑制しようとしても、仕事量が抑制されなきゃ意味がないよねと言うお話。
なんというか、どんなアホでもわかるような理屈なのに、実施するのは難しいよねと言うことだ。

で、必ずこうした労働環境問題とセットで語られるのが、日本人の生産性問題。いわく、残業しないといけないのは日本人の生産性が悪いから云々。
それぞれの論には、成る程、とても理がかなっていて、納得させられる。

けれども、それでもなお、問題が明確であってさえ、修正するのが難しいのが、文化である。

僕は、この労働環境問題の根底にあるのは、他人への権利の無理解であると思っている。

例えば、有給取得しようとして断られるのも、他人の権利を軽んじている証拠だ。

例えば、「こんなドキュメント作成は意味がないから作りたくない」と仮に言えたとしても、それが真剣に受け入れられないのも、他人の権利を受け入れていない証拠だ。

例えば、残業代より自分の時間を、と主張しても残業しないのは協調性がないやつ、などと白い目で見てくるのも、他人の権利に無理解な証拠だ。

人にはそれぞれの人生があり、それぞれの主張があり、それらは尊ぶべきものだと言う考えがないことが、根底にあるものだと僕は感じる。

労働環境や生産性はよく諸外国と比較されるが、その問題の根底が他人の権利問題にあると思えば、僕は割と腑に落ちる。

何故か?そうしたものは、宗教が強く後押しをしていると強く感じるからだ。

ご存知の通り、殆どの日本人は無宗教だ。
つまり、殆どの経営者もそうである可能性が高い。
宗教がなければ人間は傲慢になる傾向にあると僕は考えている。ましてや、資本主義社会の今であればなおのことだ。

他人への思いやりを含む宗教と資本主義が素晴らしい調和を生み出したのが、よく見本にされる欧米である。

とは言え、別に宗教がないことが問題などと結論するつもりなどない。結論に値する論など、どこにも存在しない。
僕たちが選べるのは、「どちらがより良いか?」だけで、「何が正しいか?」なんてのは選べない。
それを探していて難航するのはわかるが、日本人は几帳面なので悪魔の証明に取り組み始めているのがわかる昨今である。

畢竟、労働環境に問題意識を持っており、微力ながら自分も行動に移したいと思っているなら、他人の主張を受け入れることから始めてみよう。自分が上司で、部下に言うことを聞いて欲しいのであれば、まずは部下の人権を尊重し、彼が何を大事にしているか、会話の中で見いだし、受け入れてあげよう。

英語生活での頭打ち状態について

去年の3月頃からアメリカプロジェクト遂行のために、通算21週間ほどアメリカ滞在している。
最初は後頭部の痛みを感じていた英語にも、仲の良いアメリカ人が出来てからはだいぶマシになってきた。

でも最近、なんとなくスランプを感じる。「あ、いけるかも」と思っていた時期がなくなり、少し恐怖感が出てきた。
それが何故かはわからない。慣れが原因で逆に起きていることなのか、ストレスによるものなのか。

仕事自体ももちろん不安でいっぱいだ。本社に応援を要請しても、具体的に何かしてくれるわけでもない。
結局は自分でなんとかしなきゃならない。

こと英語について言えば、伸び悩んでいる感が非常に強い。新しい英単語なんてのは覚える以外の方法はないんだが、
問題なのは英単語のニュアンス。頭で聞いた言葉を英単語に分解して翻訳したり、あるいは言おうとしていることを
頭の中で英文にして…と言った方法について限界を感じる。

そう言ったやり方は、頭の回転の速さに完全に依存したやり方であって、仕事の会話を続けることが出来る方法ではない。
言うなれば、日本語と英語の翻訳を無理やり一人で可能な限り最速でやろうとしているだけだ。

でもそんなやり方は、「言葉の持つ意味深さ」の前には完全に役立たたない。
takeを「取り上げる」と言う日本語訳で覚えている限り、その単語の持つ本当のイメージには到達出来ないため、会話がわからなくなる。

ネイティブの使う文法は本当に、僕たちが覚えてきたものとは違う。
僕たちが受けてきた教育があまりに理想的すぎて、翻訳の解釈を与えすぎて、あまりに理屈的すぎて、会話が出来ない。

僕たち日本人が会話で使う文法について考えてみるといい。教科書で使うような文法か?
頭で組み立ててから話しているか?喋りながら考え、情報を継ぎ足し、会話の着地点を探しながら話しているのが常ではないか?

日本語で話すときの感覚と、英語で話すときの感覚。
その2つの違いを感じるようになってから、英語を話すことがどういうことか、わかるようになってきた気がする。

もっと感覚的に話さないとダメなのだ。単語なんて多く知る必要はない。適切な単語があれば誰かが教えてくれる。
「データベースにデータを入れます」
これが put data into database なのか、set data into databaseなのか、take data into databaseなのか、頭の中で考える前に話せ!
思いついた言葉を先に言うことが大事だ。わからなければ相手の顔に?マークが浮かぶ。じゃあ別の単語を使えばいい。
初めから正解を求めることこそが不正解な姿勢なのだと、強く思うようになってきた。

仕事の生産性を上げて給料が上がる

僕はその決まり文句を聞くたびに思う。
普通のサラリーマン従業員には、無縁の話である、と。
生産性を上げた結果、会社に利益が出たとする。それが、賞与と言う形で社員に還元されることはあるだろう。
だが、「生産性を上げた本人の給料が上がる」か?

他の社員と比べて、多少賞与支給額が高くなる…そういうことはあるだろう。
だが、基本給に反映されるだろうか?生産性の高い社員が、基本給で上司を抜くことがあるか?
会社にもよるかも知れないが、あまりポピュラーではないのではないかな。
部長課長クラスになると、人員を管理する役職上、当然部下の給料について把握する必要がある。人件費はキチンと管理すべき費用だ。「いやあ、あいつがどんだけ給料もらってるか、わからないよ、ハハハ」なんてのは笑えるが笑えない状況である。

そんな、予算管理を行う立場にある人が、「あいつは生産性が高くて明らかに利益を生んでいるから、基本給を月5万上げてやろう。おっと、そうしたいが会社の規定がそうなってなかった。その上、部長のオレと同程度、課長の給料よりも高くなってしまうじゃないか」
ここまで来て、「まあそれでもいいか」となるところは、日本ではほとんどないんじゃないかな。

例えば、40人で100メートル徒競走をしたとして、全員少なくとも20秒以内で走ることが要求されているとする。
この時、合計時間の「800秒」が売上目標、売上予算とする。秒数が少なくなれば「利益が出」、多くなれば「赤字になる」。

さて、ある人は、100メートルなら全力を出せば13秒で走れる。合計時間は793秒になり、7秒の利益が出る。

この出た利益の7秒を、他の40人にも還元しよう。他の足の遅い人が27秒になっても、大丈夫だよ。

これがチームプレーである。弱きを強きが補う。素晴らしい。

さて、タイトルの通り、「生産性を上げて給料を上げよう」というのは、13秒で走って、7秒分の利益をもらおう。という企みである。
これが可能なのは、他の39人も生産性を上げ、合計時間が520秒になり、一人当たり7秒還元して良いという場合のみである。
基本給に反映されるとなると、恒常的にそういうことが行われてなくてはならない。

そんなことが会社の規定上、現実的に有り得ないから、13秒で走れるところを、だらだらして18秒で走ることになる。つまるところ、余力があるのだ。

仮に13秒で走って、自分の稼いだ7秒が自分の所得になるなら、誰だって全力を出す。

全力を出しても自分に得がないから、人は全力を出さないのだ。

簡単な話だ。何故共産主義より資本主義になったか考えてみればいい。

会社の規定が共産主義的である限り、生産性が従業員に還元されることはない。

逆に、「上がった生産性」を「上げるべき給料」に即換算出来るような仕事はそうないんじゃないかな。生産性の定義は難しい。大抵は、効率と一緒くたに考えられるが。

10日で終わる仕事を5日で終わらせたなら、それは元々5日で終わるはずの仕事だった、見積もりが甘かったね、と言われて終わるのが現実だ。

この辺のことについて考え出すと路頭に迷うのでいったんここで今日は終わろう。