無用の長物という判断と妥協の分水嶺

たとえ今の状態でアウディを持っていても、息子の幼稚園の送り迎えにも使えない。
何故なら、息子の通う幼稚園は駐車場がないし、しっかりとした理由がなければ車を使うことは禁止されているからだ。

とはいえ、大事なのは、アウディそのものではなく、アウディを持てる状態と、それを惜しみなく使える状態である。

従って、今の僕にはアウディなど無用の長物である。

もし今の僕の思考でアウディを買える状態にあったとしても、アウディを買う決断をするだろうか?


答えが何かと理由をつけて「NO」とする場合、それはやはり、社会的に車を持つことがステータス以外の価値を持たないと言う結論になるのではないか?

僕は高級車を持つことに、そこまで憧れは感じない。


仮にアウディを買える状態にあったとして、その時に、今手を出してない「株などを買うか?」という質問に対しては、「YES」になるんじゃないかと思う。


ただ、この「仮定した未来における質疑応答」は、今の状態、今の思考をベースにした、思考実験のため、あまりアテにならない。

人は状況によって思考が変わる。


ただ、僕の中には厳然とした真理があり、どのような状況にあっても、それは崩れることはないだろう。


諺にある通り、「起きて半畳、寝て一畳」「天下取っても二合半」。


いくつもの別荘を持っていても、人間は偏在出来ないので、1度に利用できる家は必ず一つだ。

それって、行く先々でホテルに泊まることと本質的な違いがあるか?


いくつもの車を持っていても、人が運転する今の時代である限り、一度に運転出来るのは1台だけだ。

行く場所によって乗る車を分ける必要性があるか?



身の丈を知り、多くを望まない。自分に出来ることには限りがあるけれども、その中で何をなすべきかは、自分自身で決定すれば良い。

唯我足るを知る。

だがしかし、これが自己肯定の末の諦観から来る負け惜しみであることを、僕は自身でどうやって否定できるだろうか?
真理だと確信していたことが、実は自分の妥協の産物だと…どうやって僕は知ることが出来るだろうか…?