チーム崩壊前夜

仕事のモチベーションが非常に低下している。
理由を箇条書きしてみる。

  • 何をしているかわからないチームメンバー
  • 何を管理しているかわからない管理職
  • 他チームとの兼務なのにうちのチームメンバーの派遣に対して口頭指示を行い続ける人
  • 見えないタスク
  • 問題意識だけはあり、なんとかしてくれとせがまれる
  • 進言しても聴いてくれない
  • 各人の役割があまりに不明瞭
  • チームと言ってる割にチームメンバー同士の共有なし
  • ドキュメントなし
  • 仕事が終わりそうなときに新たな仕事が割り込んで息つく暇もない
  • 技術で解決したいと思うも、フィードバックが得られないので前に進まない(チーム開発だからね)

結果、何をどうすれば良いか全くわからず。
僕から見たら、一つ役職の上の人たちの人間関係の問題のように思える。

わからないことを「わからんからあとはよろしく」という投げ方をされると、報告しても理解が得られないので、独り相撲が続く結果に。

昔はこうではなかったような気がする。
良くも悪くも、指揮系統は明確だった。
僕は開発に関係することを指揮していて、上司は文句を言いつつも、チャレンジさせてくれていた(その辺放置されていたとも言える)

今は違う。誰がどういう指揮の下で動いているのか、誰がどういう権限を持っているのか、まったくわからない。

仕事の完了報告だけがただただされていて、誰も中身について見ないというような状態が続いている。

ソフトウェア開発において、ソフトウェア開発プロセスを無視するという暴挙を実行しているのが今の僕のいるチームである。

ドキュメント一つ取ってもそうだが、

  • 時間があったら書いてね

という人と

  • 今やってる仕事が終わったら次はこれね。あ、納期は○○日だから。

という人が同じチームにいて、その二人の同期が取れてない状態だとうまく行くはずがない。

仕事のやり方なんてのは真っ先に決めるもんだと思っていたが、そういう組織として抜本的なところを蔑ろにするから、足元が脆弱になるのではないかと思う。

技術軽視をして、仕事上を流れる金のことばかり追っているとこうなりますという事例が、今まさに生まれそうだ。

守りの軍事行動

様々な経済政策が空振りに終わり、それが国民性や人口動態の変化などに根を持ち、科学技術的の弱体化などと絡み合う場合、確かに現状の枠組みでの政策をこれ以上考えても、焼け石に水のように感じる。

他方、改憲共謀罪など、軍事に関係する議論もある。

「日本は軍事力を持つ気などない」
このスタンスが貫かれ続けると仮定すれば、せめてありえるのは守りの軍事力、いわば国防としての「情報戦への礎」、つまり諜報機関だと考える。

攻めの軍事行動は経済を騒がせる。
ならば守りの軍事行動はどうだ?
せめて経済活況への呼び水にもなるのではないか。

発言コントロール

発言するかしないか、それは自分自身でコントロールすることが出来る。
もちろん、何を言うか、何を言わないべきかも。

だが、発言したあとの他人の言動及び思考については、コントロールが出来ない。
僕たちに出来ることは、「予測すること」しかない。
その予測精度をより高める方法は、発言の解釈の余地をなくすことと、相手の理解力に合わせた言葉を選択すること。
それでも「誤解」と言うエラーであったり、相手が「この発言をする心理は…」と言った心理戦に突入したりと、とてもコントロールの及ぶものではない。

「沈黙は金」はそうした悩みに対する快刀であり、一定の解であるが、解決策ではない。逃げの一手である。

建設的に会話を続ける方法とは、一体なんなのだろうか。

身の丈

自分の身の丈について考える。
自分が背伸びをして目標に到達出来るかどうかは、自分の身長を知り、目標に到達している他の人の背の高さを知り、その差を知ればこそ。

最近、役員の方々や、役職のかなり上の方々と食事をする機会があった。
僕は思った。同じ人間である。ただ、とても体力がある。「休む」ことをしているように見えない。すごく働いている。しかし、食べる量は同じだし、酒を飲む量も同じ。話す速さも同じだし、理解出来ないことを話しているわけでもない。相対して恐れを抱くようなことはなかった。

僕はどうだ?僕は体力に自信があるわけでもない。疲れたらすぐに休みたい。働く量はそこそこでありたい。何が何でも金を儲けて成功してやる、なんて考えない。家族と過ごし、アニメや映画などを見ながら、ゆっくりと過ごす日常を犠牲になんてしたくないし、それを犠牲にして「成功した」と社会的に言われている人の幸せとは一体何なのだろうと思う。

他方、自分に出来ないことの憧れは多分にある。人が到達することの難しい絶景で写真を撮ってみたい。誰もが唸るような綺麗なCGを作り上げてみたい。ファンがつくような絵を書いてみたい。自分で楽曲を作ってアレンジされてみたい。

でも、どんな願望も、今の自分の環境を壊してまで手に入れたいとは思わない。

つまり僕は現状に満足してしまっているのだ。
それが自分の進歩にトドメを刺してしまっていることはよく理解している。

だがそれでもなお、「今の生活を犠牲にしてまで自分を進歩させることの意義」を理解出来ない。
生活がとても苦しいわけでもない。新しいマンションも買った。車はちょっと古いけど、まだまだ走れる。子供だって幼稚園に通ったばかり。友人たちにも子供が生まれる頃だ。

そんなありふれた、平凡な幸せに満足することを「停滞」と言うのは、正直なところ理解が出来ない。羨みや僻みの産んだ、歪んだ認識の産物だと思う。

もちろん、僕だって進歩したい。ただ、それは今を犠牲にしてまですることではないと言うだけだ。
僕の息子はこれからどんどん大きくなる。もうオッサンである僕なんかより、もっと早いスピードで成長するだろう。
僕は息子の成長をサポートする。自分にできなかったことを息子がしてくれるならそれで満足だ。息子には息子の人生がある。父親である自分とは違う。3歳の息子の未来は無限大だ。
こうして人類は続いていく。決して、個人の成長だけが人類を継続させるわけではない。

1年かかったアメリカのプロジェクトももう終わり

2016年3月に初めて仕事でアメリカに来てから早1年。
この1年間は、半年近くをアメリカで過ごした。
最初はまったく慣れずに、通訳を絶対に必要としていたけれど、通訳がいない時にユーザと会議をしたりすることもあり、その辺から、「ああ、英語を身に着けないとプロジェクトが終わらない」と感じ、とは言え今までしてきた勉強がほとんど意味がない・・・意味が無いと言うわけではないが、効果的ではないとわかり、英語に対する考え方を変えてから、なんとか通訳無しで仕事を出来るようになった。

アメリカ人同僚とも仲良くなり、定時後に一緒に飲みに行ったりすることも多く、英語の勉強と言う意味では非常に良い機会に恵まれたと心底思う。
もちろん、プロジェクトも大変だったんだけど、プロジェクトの遂行よりも英語のほうが、人生にとっての比重は重たかった。だから僕にとっては、仕事より英語のほうが大事な一年間だった。

さて、僕の英語に対する姿勢はこの1年でガラッと変わった。

何を一番伝えたいかと言われれば、
頭の中での翻訳を極力やめること
である。

例外は名詞。名詞こそは、単語力がモノを言う。だからどんどん記憶していくべき。これは日本語でも同じだと思う。名詞は覚えるしかないのだ。

ただそれ以外については、聞いた英語に対応する日本語を探して・・・と言うプロセスが頭の中にある限り、一線は超えれないと思う。確実に。

例えば動詞「make」を、日本語で「作る」と言う対応表が頭の中にある限り、日常会話に苦労することは間違いない。
会話をする時に、日本語から英語にすると思うが、それをしようとして出来ないと気付くことが、最初の躓きポイントだと思う。
相手の言葉が聞き取れないことは、躓きポイントにすらならないと思う。それは単に慣れだ。何度も聞き返したりしてると聞こえるようになってくる。
ただ、「聞き取れても意味がわからない」と言う場面がいくつか出て来る。それも第二の躓きポイントである。

  • 相手の言う単語を聞き取れる
  • 相手の言うことがわかる
  • 日本語を英語に直すことが出来る

一見、これで英会話は出来るように見えるが、僕はそれは高性能な翻訳ソフトがしていることを人間がしているだけと考えるようになった。
頭の回転の早い人は、英語から日本語への変換、英語から日本語への変換を非常に高速で行うことが出来るため、恐らく仕事上での英会話は困ることがないと思う。
でも、その翻訳のスピードと、「英会話が出来る」と言うことはまた別の問題だと思う。

つまり、僕がわかったことは、単純に言い直せば、「『英語脳』と言うのを肌で実感した」と言うことだ。
英語は確かにシンプルな言語で、単刀直入な言い回しが多く、結論ありきで話す言語である。
ただそれは文法的な側面を切り取って述べているに過ぎない。英語の一つ一つの単語には、英語の学習には欠かせない「コアイメージ」と呼ばれるものがあり、それをどれだけイメージ出来るかが、英語脳の出来具合にかかっている。

英会話はフィーリングだ、と暴論でまとめる気はないが、総じて言えば本当にその通りだと思う。この感覚だけは、通訳無しで、英会話を日常的にしていないと培われないと思った。

もう1年がけでやってきたプロジェクトも終わり。これで節目である。
今の仕事でもうアメリカに来ることはないと思うが、引き続き、別のプロジェクトのフォローに回ることが決定しているため、もしかしたらまた来るかも知れない。
英語で仕事をしたり、調べ物をしたりすることは当たり前になっている昨今、自分の英語の学習は継続的にやっていくようにしよう。
僕の3歳になった息子も、幼稚園で初等英語教育をやるみたいだし、息子に自身を持って英語を教えてあげることが出来る父親になりたい。

労働環境問題における根底にある原因

労働環境の是正へ取り組む政府の動きが非常によく見えている昨今、その動きと企業の動き、さらに実際に働く従業員から聞ける声にはギャップがある。

当然、最もギャップの大きいのは従業員からの声と、企業側の施策内容だ。
電通が22時で消灯することを実施したのとは対照的に、従業員は持ち帰り仕事をしているだけ、早出をしているだけ、など、施策がポーズに過ぎないにしてももうちょっとやり方があるだろとツッコミたくなるような雑さであるが、つまりは残業抑制しようとしても、仕事量が抑制されなきゃ意味がないよねと言うお話。
なんというか、どんなアホでもわかるような理屈なのに、実施するのは難しいよねと言うことだ。

で、必ずこうした労働環境問題とセットで語られるのが、日本人の生産性問題。いわく、残業しないといけないのは日本人の生産性が悪いから云々。
それぞれの論には、成る程、とても理がかなっていて、納得させられる。

けれども、それでもなお、問題が明確であってさえ、修正するのが難しいのが、文化である。

僕は、この労働環境問題の根底にあるのは、他人への権利の無理解であると思っている。

例えば、有給取得しようとして断られるのも、他人の権利を軽んじている証拠だ。

例えば、「こんなドキュメント作成は意味がないから作りたくない」と仮に言えたとしても、それが真剣に受け入れられないのも、他人の権利を受け入れていない証拠だ。

例えば、残業代より自分の時間を、と主張しても残業しないのは協調性がないやつ、などと白い目で見てくるのも、他人の権利に無理解な証拠だ。

人にはそれぞれの人生があり、それぞれの主張があり、それらは尊ぶべきものだと言う考えがないことが、根底にあるものだと僕は感じる。

労働環境や生産性はよく諸外国と比較されるが、その問題の根底が他人の権利問題にあると思えば、僕は割と腑に落ちる。

何故か?そうしたものは、宗教が強く後押しをしていると強く感じるからだ。

ご存知の通り、殆どの日本人は無宗教だ。
つまり、殆どの経営者もそうである可能性が高い。
宗教がなければ人間は傲慢になる傾向にあると僕は考えている。ましてや、資本主義社会の今であればなおのことだ。

他人への思いやりを含む宗教と資本主義が素晴らしい調和を生み出したのが、よく見本にされる欧米である。

とは言え、別に宗教がないことが問題などと結論するつもりなどない。結論に値する論など、どこにも存在しない。
僕たちが選べるのは、「どちらがより良いか?」だけで、「何が正しいか?」なんてのは選べない。
それを探していて難航するのはわかるが、日本人は几帳面なので悪魔の証明に取り組み始めているのがわかる昨今である。

畢竟、労働環境に問題意識を持っており、微力ながら自分も行動に移したいと思っているなら、他人の主張を受け入れることから始めてみよう。自分が上司で、部下に言うことを聞いて欲しいのであれば、まずは部下の人権を尊重し、彼が何を大事にしているか、会話の中で見いだし、受け入れてあげよう。