苦労すべきものとそうでないもの
オレも苦労したからお前も苦労しろ!と言う理屈 - 警察官クビになってからブログ
「プロなんだから、ちゃんと常に勉強してろよ」という言は、対象によっては理不尽を孕んでいる。
例えば僕はユーザー系子会社で働いている末端SEだが、「定時内に、与えられた仕事さえやってりゃいい。向上しないのは会社の教育の問題」というスタンスのやつには、正義は感じない。
自身の向上心の無さを会社の教育制度のせいにするやつは、どんな教育制度があっても向上しない。
畢竟、教育というのは、教育される側にも向上心があって始めて成り立つものだと思う。
向上心を芽生えさせるのは教育ではない…と僕は思う。適切な言葉は見つからないけど、僕はそれは、親が子供に教えることだと思ってる。
子供の興味を見抜き、その分野に関する教育を施し、一流になっていく。そういうものだと思ってる。
「オレも苦労したんだから」の論は、「オレもこの道でやっていくためには色々勉強が欠かせないからしっかりついてこいよ」という意味になると、とても自然である。
しかし、技術が発達してるのに、上記記事のように、「地図くらい読めるようになれよ」とカーナビを奪うのは、それはまた筋の違う話だ。
「地図くらい読めるようになれ」というのは、あったほうが良い技能だと思うし、そのために色々苦労するのは無駄にはならないと思うけど、それが時と場合を選ばない場合において、ネットでよく見るネガティブな意見の対象となる。
「Excelで自動で演算してくれるけど、自分でも紙とペンで検算して確かめろ」の論も相似である。自身で紙とペンで検算出来る能力は非常に有用だが、全ての業務、全ての場合において適用しようとするとき、それは理不尽だし、とても非効率となる。
だから、そう、履き違えないで欲しい。
苦労それ自体には悪い意味合いはない。楽をするために苦労をすること、つまり人類の繁栄に寄与するためには、汗を流さない方法など存在しない。
習慣化の難しさ
ダメだ。習慣に出来ない。日記をつけることが・・・
なぜ習慣に出来ないのか?
- 日記をつける時間がない
- 出たよ。また出たよ。時間がない。否、時間はあるんだ、何しろ通勤時間1時間半もあるんだから。会社で書くのが憚られる気持ちになるんなら、電車で必ず書くと言う習慣をつければ良い。
- 日記をつけるネタがない。
- まあ、定型文から始めることかな。別に毎日違うことを書かなきゃいけない理由もない。何時に起きて、何食べて・・・とか、そういう簡単なことから始めるといい。
- フリックで書くのが面倒
- キーボードに比べたらどうしても遅くなるからね。それは仕方ない。どうしてもって言うなら、コンパクトキーボードを忍ばせておくとか。
- タスクを整理するので精一杯。
- これこそ、就業時間内にやるべき内容かな。電車で移動中に思いついたならともかく、整理くらいは会社でやるべきだ。
- 考えるのに忙しい。
- それをまとめるための日記では?
- 考えがまとまらない。
- まとまらないことを考えてもまとまらないでしょ。ほっといたら結論出るような、そんなに高性能な脳なの?まとめるための日記でしょう。言語化は大事だよ。
- ネットサーフィンだけで時間潰れる。
- ネット見るだけなら帰宅してからやったら?
- 通勤中は本読んだりしたい。
- 決めごとの世界かな。例えば、会社から大阪駅までは日記の時間とか、帰りの電車は日記タイムにするとか。
- 愚痴ばかりになりそう。
- 日記なんてそういうモヤモヤしたことを発散するためにあるものだろ。自分しか読まないものなら別にいいよ。
- 誰も読まない日記より、誰か読む可能性のあるブログ書きたい。
- 日記を下書きだと思え。校正したものをブログに好評すりゃいい。
- ボーッとしたい。
- 確かに、ボーッとすることは脳にとって非常に大事らしいな。でもそれ以上に、脳の処理能力を超えているような情報量を吐き出すことのほうが大事だ。なぜなら、ボーッとして頭は無意識に整理されるだろうが、結局脳内にしかなきゃ、そのうちまたカオスになるからだ。それは自覚してるんじゃないか?その時はスッキリしたとしても、時間が経てば、アウトプットがなきゃ結局また元の木阿弥になっていることに・・・。
- 書評書きたい。
- それこそ、日記で貯めこんでたらいいだろ。何の本を読んだかなんてのは、ノート内リンクでもはりゃいい。
結局のところ、自分で理由をつけて自分で否定して、自分で解決策を探して、自分で取り組んで・・・と言うことに、自分自身が意味を感じていないのかな?
月並みな言い方になるけど、「自分自身が最大の敵」ってやつだ。自分を倒すことは出来ない。だけど、自分には立ち向かわなきゃいけない。
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TOEIC結果
息子とエディオンに行った帰りに、マンションの郵便ポストを見に行ったら、TOEICの結果が返ってきていた。
僕は大学一回の時に、一度だけ受けた事があり、その時には確か、よく覚えていないけれど、430点くらいだったように記憶している。
そこから10年くらいたち、仕事で海外出張も多くなり、プログラミングもしているため英語が読めないと情報収集能力に差が出るため英語を勉強するなど、否応なく英語で仕事をせざるを得ない環境となり、2016年は行ったりきたりで通算半年間ほどアメリカに滞在するなど、英語に苦手意識を覚えていると生きていけない状況となった。
そういうわけで、さすがにネイティブに観光に連れて行ってもらったり飲みに行ったり仕事してたりすると、英語の感覚というのがわかってきて、会議も何とか乗り切れるくらいにはなってきた。
アメリカの仕事が一段落したので、英語力が落ちないうちに一度受けておくかと思い立ち、6月に受けた時には、惜しくも590点だった。ちなみにこの時、listeningはどんな問題が出るのかってのと、単語レベルに慣れておくための、listeningに対する勉強はしていたのだけど、readingはなんとかなるやろ、とタカをくくってたが故、その油断が原因で、10点足らずと言う結果となった。
会社の規定では、600点に達したら報奨金がもらえるので、何とも非常に悔しい思いをした。
だから10月、ちゃんとreadingの傾向も把握して(ちゃんとした勉強はしてないが、速読の練習はほんの少しした)臨んだ結果、630点を取ることが出来た!
嬉しい。努力が実ることは、何事にも耐え難い。
TOEICはこれからも定期的に受けるようにしよう。なにしろ、海外駐在が割と現実的にあり得る状況になっているのだから。英語学習を習慣とすること。それが大事だ。
個人の方が強くなる時代で
痛いニュース(ノ∀`) : 内定もらった大学生の7割が勝手に辞退する異常事態 何の為の内定なのかと企業側は激怒 - ライブドアブログ
例えば、会社が10人の新入社員を必要としていたとする。
内定者の内、何人かは辞退する。
従って、あらかじめ15人の内定者を確保する。
15人の内定者を確実に確保するためには、少なくとも30人が最終面接まで辿り着くとする。
などなど考えていくと、辞退を織り込んだ採用活動は非効率と言う結論に至るまでにそう時間はかかるまい。
ましてや昨今、退職者の数も多いのだ。退職者の数、辞退者の数、「戦力にならない穀潰し」など、本当に企業のためになる人材を獲得するというプロセスを真剣に考えるときだ。
新卒一括採用を遵守してきた企業にとっては、たまらない現実だ。
しかしこれからは面白い時代になるね。
企業はどんどん少なくなる新卒を奪い合う。
新卒は何社にもエントリー可能。しかし、一社しか選べない。
良い待遇を保証出来ない企業は潰れていく。
良い待遇を保証出来た企業も、穀潰し社員を「解雇出来ない」ために、名目生産性が上がらない。
さてさて、副業解禁は政府から動きがあった通りだが、解雇にメスを入れるのはいつになるかな?
会社から副業を勧めることは、緩やかな雇用流動性へ一役買いそうではあると考えているんだがなあ。
副業は個人で見ても、収入の多様化という面で想像が膨らむが、お荷物社員に対して、自社以外の道を用意出来るという意味で良さそうだが。
要するに、30代の僕としては、自分より明らかに仕事してないのにやけに高い給料を得ているという人物に対して我慢がならないわけだ。生産性やらなんやら言ったところで、そういう、人に対してメスを入れることが出来なきゃ内部変革は出来ないと感じている。
信賞必罰の機能。まずはこれだろ。
不信感、不安感、焦燥感
https://www-asahi-com.cdn.ampproject.org/c/www.asahi.com/amp/articles/ASKC77RXLKC7ULFA03D.html
企業の現預金、最多の211兆円 人件費はほぼ横ばい:朝日新聞デジタル
いざなぎ超えの景気だ!と報道されても実感が湧かないのはこういうことだったんだね。
従業員賃金に反映しない理由はなんだろう?
- 将来何かあったときの蓄えにしておきたい(従業員に分配すると返ってこないから)
- 従業員の賃金テーブルを書き換えるほど、先の見える好景気ではないから
- 従業員の賃金を上げる形より、その他の福利厚生への転換と言う形で従業員の満足度を高めたい
- 今後、様々な投資額増加が見込まれるため
- 生産性向上してないのに従業員へ反映する理由がない
- 好景気は従業員の努力ではなく外的要因
思いつきで書いてるけど、なんとなく、経営陣と従業員の間の相互不信感は漂う。
まあ、従業員はちゃんとやってるのに賃金上がらないとなると経営陣に不信感は沸くし、経営陣としても、外的要因の売上向上が多いのであれば、当然従業員へ還元する理由には結びつかない。
しかしいずれにせよ、根っこにあるのは
- 未来の不透明感
- 目の前だけを改善すべき
という発想を超えるものではない。
会社としての努力でどうにも出来ない問題は、社会としてどうにかするしかない。
そういうわけで、もし僕の仮説がある程度当てはまるのであれば、今後5年間くらいが、転換点になるのではないかなと思う次第なのだ。
乗り物の変遷
【悲報】自動車業界・重鎮「20年後に車を所有している人はいない。自動車の歴史はもう終わり」 : オレ的ゲーム速報@刃
まあ、時代はそういう流れに来てると思うけど、移動手段だった馬を今も移動手段として利用している人は部族社会の人々を除いていませんよ、と言うことと同列の話。
車も娯楽としては残り続けるだろうけど、公道を運転することが危険という時代も来るだろうなあ。
個人的には車には別段思い入れがないし、危険が減るんだったら良いんじゃねと思う程度。中学時代に事故で友人亡くなってるし、「人が運転しねーとだめだろ!」なんてのは死んでも思わない。
結局最後まで反対勢力になるのって、そういう感情的なところなんだろうなあと思う。
健康に悪いのがわかってても、自分の思う格好良さを演出するためにタバコを吸い続ける人の心理と同じ。代償を払って自分のプライドを守る姿勢は格好良いと思うよ。僕には、健康を犠牲になんて出来ないけどね。
自家所有の車がなくなる未来というのは、例えばマンションの駐車場が減るとか、そういったことも影響するよね。その分敷地が増えりゃいいけど。自動運転者専用駐車区域みたいなのが出来るのかね、そのうち。
分析と設計と
ユースケース駆動開発実践ガイド (OOP Foundations)
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今読んでるのだけれど、
分析とは、正しいシステムを構築するための作業です。
設計とは、システムを正しく構築するための作業です。
予備設計とは、分析と設計の間に位置する中間ステップです。
という言葉があって感銘を受けた。
僕は会社で体系的な教育を受けず、いわば我流でシステム設計をしているんだけど、そういう付け焼き刃でやってきた行為と言うのは、結局のところ正しくない。
金や人や時間などの制約はあってそれを言い訳にしているけれど、それらが無限にあったとて、今の僕の能力じゃ正しい設計なんて出来ないだろうと思う。
分析する能力も足りなければ、構築する能力も足りない。
分析も設計も、改めて定義されると、自分のやってることの稚拙さが垣間見えた気がする。
設計とは本当に難しい。