月給の額の妥当性

IMF 日本は労働市場の改革進め消費税15%に | NHKニュース



労働市場の改革というキーワードでいくつかサイトを見てて考えた。

長時間労働の抑制がうまくいかないのは、仕事のやり方もさることながら、生活残業を目当てにしている部分もあることは否定出来ない。

つまり、いくらワークライフバランスの側面から改革したところで、得てる糧の側面がそのままだと片手落ちになるのだ。
目を横に向けると、花畑が広がっている。だけど自分はそこへの一歩を踏み出すことが出来ない。そんなジレンマが待ちかまえてる。

生活残業をアテにしないといけないというのは、つまり基本給が低いと言うことを意味するわけだが、そもそも僕らがもらっているこの給料、誰が妥当性を判断している?

どこの会社も、新卒の場合は大体は基本給は20万プラマイ4万程度で、面白いぐらいに一律だ。
まあ平均20万だとしよう。

誰が、新卒の値段が20万だと規定している?

どこの会社で、誰を雇っても、平均20万になる理由はなんだ?

定昇の上がり幅は会社によって差はあるだろうが、一年で10万も上がるところはまあないだろう。

僕は、労働市場の改革をするのであれば、この疑問に答えることが何より先だと考えている。

会社が得てる売上、利益なんて会社によって差があるはずなのに、何故従業員の給与は一律に近いのか。

従業員の最低限の生活を保証する金額が20万か?
その割には、税金や社会保険の値上がりと比例していないような体感がある。給与から引かれる分が多く、25%くらいは差し引かれているような状態だ。江戸時代なら一揆レベルだぜ。

ベースアップなどの交渉、いわゆる春闘というのか?僕は詳しくないが、あれもよくわからない。全会社を代表して行う横断的な組合的な活動なのか。
あの活動と、基本給の見直しは関係している。それはたぶん間違いないだろう。

つまり…やはり基本給は会社によって定められているというより、社会的に決められている可能性が高い…?それが暗黙的なのか明示的なのかはともかくとして…

個々の新卒のレベルはそれぞれ違うが、大学教育の内容と社会が求める力との差を加味した期待値としての給与、それが新卒の最初の基本給か?
筋は通る。となると、ここからは教育の世界になる…

あくまで教育と労働市場を連動した状態を貫くか、あるいは完全に切り離すか。

…考えてみれば、この構図は、中高一貫に似ている気がする。
学校教育と労働市場が、完全に続くものとして考えられている。昔はそのほうが良かった?中流階級を増やして、社会全体のレベルを上げるには?

平に均された環境の質の底上げは飽和状態。
ならば次に打たれる手は…なんだ?

労働市場の改革という御旗を掲げ、すぐに本陣に切り込むか?
具体的にどこを改革するのか知らないが、全体を知らずして切り込むのは玉砕だ。

外国人労働者の受け入れ、マイノリティの受け入れ、女性の活躍…切り込むメスはいくつもあり、それぞれが未来にとって非常に重要なファクターであるが、今の日本社会は切られればすぐに患部を塞ぐ過痛感社会だ。

まずは麻酔が必要だろう。

「ハマる」ということは目的と手段が逆転している状態のこと。

最近はノートを取ることにハマっている。
周期的に、こういうアナログ的な事にハマるのだ、僕は。

ノートを取ることの何が面白いか?別に面白くはない。
ノートを見返すこともしないし、記憶できることをあえて書いてる。もちろん、忘れることもあるから、忘却予防にもなってるけど。

でも、ハマるってのはそういうことじゃない。

目的と手段が逆転している状態のことをハマるって言うんだ。僕にとっては。

つまり、ノートを取ってその後何がどうなるか、なんて問題じゃない。
ノートを取ることそのもの、ペンを持って文字を書くことそのもの、その手段自体にものすごく楽しさを感じているんだ。

安いペンでも高いペンでも、ボールペンでもシャーペンでも、自分の好きなように文字を書ける。そのことがとても楽しい。
思い返せば、昔から僕はそういう傾向があった。新しいノートとペンを買っては、黒板の板書を丁寧に書き取り、自分なりの注釈や図解をつけたりすることそのものが楽しくなる時期。
そういう時は、書いた結果何がどうなるかなんて考えてない。
いや、考えてはいるけど、それすらも後付の理屈でしかなかった気がする。
書くことでより記憶が定着しやすくなる、忘れないように記憶する、新しい文字を覚える、などなど。そんなことは後付の理屈、あとからついてきた現実でしかない。

ハマるってことは目的と手段が逆転している状態のこと。だからそういう時に、ハマっていることの利点を説くことは自分に何かを言い聞かせてるってことになる。要注意だ。

変則的な日常と安定的な日常

この週末は、日曜日は丸々自分の時間に出来る休みだった。
外は寒いから、ホテルか出る予定もなく、ひたすら自分のために時間が割けるチャンスだった。

でも実際に日が終わろうとしてみると、やったことと言えば

  • 明日からの仕事の準備
  • 日本から持ってきたデクスターの鑑賞
  • Fitness Roomで30分程度運動
  • Civirization

くらいなもんだ。
結局、大したことやってない。

ここから言い訳フェーズなんだが、例えば今日1日で、仕事で使えもしないスクリプトを一つ書いたとしよう。勉強がてら、思いつきで作ったようなやつだ。継続的に改良していくこともなければ、GitにUPするなんてこともしない。
明日からはまた通常の仕事が始まり、忙殺され、次の土日は帰国便でぐったりだ。
帰国してからはまた予定の読めない仕事ばかりが始まり、3~4時間まとまった時間を取ることも出来ない日々が続く。
週末は家族との時間を優先しているから、自分のやりたいことは出来て2時間程度。
旅行計画や友達の結婚式や次の出張などの予定がたっぷり半年ぐらい詰まっていて、継続的な勉強をする時間なんて取れそうもない。

さて、予定を立てるだけで、自分の時間が細切れになるのがわかっている状態で、どうやって継続的に勉強を続けていけば良いか?

結構多くの会社員が悩んでいることじゃあないだろうか?

発想を逆にして、継続的な勉強時間をまず入れて、その次に旅行や仕事や家族の計画を入れては?
違うんだ。それは自分自身が許さない。自分よりも優先すべき計画をまず組み込むのが大事だ。

また、何も予定のない時間もバッファとして組み込んでおきたい。
僕は余裕のないスケジュールと言うのが何より嫌いなんだ。
空き時間は意図的に作りたい。その間で、崩れた予定の組み直しをしたり、考え事をしたり、雑事をしたり、あるいはスキマ時間で出来ることをしたい。

こう考えると、継続的な勉強と言うのは、どうしたって優先度が下がる。

根本的に、やりたいことが多すぎるのだ。
漫画も読みたい、アニメも見たい、本も読みたい、映画も見たい、運動だってしたい、家族とショッピングに行きたい、親孝行したい。

継続的な勉強が入る余地がどこにある?

答えはこうだ。
「時間のある若いうちにもっとやっておけばよかった」

ユーザ系システム子会社勤務の半端な技術者の悩み

僕はユーザ系システム子会社で勤務している。肩書き上は総合職の主任、やっていることは「SE」や「PM」などと言うものだ。
大学を中退し、コンピュータ関係の専門学校を卒業してから就職した。

今この瞬間僕は何をしているか?アメリカのホテルで、夜眠れない時差ボケに苦しみながら、この記事を執筆している。
アメリカには、出張で来ている。2週間、こちらでの仕事をする必要があり、今週からこちらで勤務している。

どういう悩みを抱えているか?それは非常にシンプルで、プログラミングが出来ないと言うことだ。
今の僕の大半は、会議・EXCEL資料作成であり、コーディングなんて週に30分あるかないかだ。

ユーザとコミュニケーションを取り、予算管理部門と交渉して予算を捻出し、外注企業に仕事の説明をし、仕様書EXCELで書き、納品されたものを検証し、出張などをしてユーザに説明しながらフォローを行う。
それが今の僕の仕事の全てだ。

仕事のフローは上記の通りだが、実際の仕事内容は非常に短納期で、かつバリエーションに富んでおり、毎度楽しく頭を働かせている。
そういう意味では、今やっている仕事に対する不満は特にない。本気で取り組めば非常にやりがいのある仕事だ。結果も割りと見えやすい。

しかし、そんな状況だからこそ、僕が技術に割ける時間がものすごく短い。それが不満なのだ。

僕は技術が好きで、暇があればQiitaを覗いたり、はてブのテクノロジーカテゴリに上がっている最新記事を読んだり、VIMプラグインを試したり、新しいIDEをインストールしたりしているくらいにはIT関係の技術に興味がある。通勤中の読み物も、科学技術関連のものが多く、新しいことを知ったり、先人たちの歩んできた道のりを知ることにものすごくカタルシスを感じる。

そうして空いた時間に得られた知識を、生活の半分くらいを占める仕事に生かせないことにものすごくストレスを感じている。

僕はもっとプログラミングをしていたい。1週間くらい、他の仕事をすることもなく、コーディングをしたりしていたい。
今は、分刻みに刻まれたスケジュールをやりくりし、全てEXCELの報告書を読み、訂正し、バージョン管理も正しくされないまま、時には何が最新かわからなくなるような前時代的な憂き目に合いながら日々を過ごしており、コーディングへ頭を切り替えても10分後には別の仕事が始まるため、コーディングに対する姿勢が失われている。

今僕はアメリカ出張で、日本にいる時よりも比較的時間を取れるほうだ。つまり、コーディングに打ち込める時間は取りやすい。
が、実際にはどうか?コーディングに対する姿勢が及び腰になっている今の状況で、また新しい朝が始まるとユーザとの打ち合わせや、日本で行われたことの報告・調整などで忙殺されてしまう。
ホテルに戻ると時差ボケも手伝ってそこそこ疲れており、次の勤務までに使える自由な時間はせいぜい3~4時間ってところだ。それも、ホテルでのメールの返信や、翌日の準備などをしているとあっという間になくなってしまう。

つまるところ、環境を変えても、やりたいことをするには仕事量が多すぎると言うことだ。

もちろん、GTD的に、やることをリストアップして自分をコントロールすることもあった。何をしないか、と言う選択も常にしているつもりだ。

けれど…取れた時間を自分の自由に費やす勇気が出ない。「どうせすぐに中断されて止めることになるし」と言う思いが常にあるのだ。
言い訳めいた言葉だけれど、僕にとってはまごうことなき現実だ。実際その通りだし。

また、僕の立場的に、新しい技術を勝手に業務で使うことにはあまり差し障りはない。細かな部分で新技術を取り入れて業務改善をするのは、企業内では容認されているのだ。

僕と似たような境遇で、同じような悩みを抱えている人は他にいるのだろうか?どう解決しているのだろうか?
転職だって何度も考えた。けど、今の仕事にやりがいがあるため、完全に転職理由がエゴだ。
それだって別に正当と言えば正当なんだけれど、職場は満足しているし、給料だって不満がない程度にはもらっている。
技術的なことがやりたいと言う理由で転職に踏み切った場合の、妻や幼い息子へのケアのことを考えると、どうしても踏み切れない。

明らかに今は人生として安定している。そこであえて転機を求めることは欲張りなのだろうか?
自分の変えていける範囲で変えていけばいい、と言う発想もある。
だけれど、上記のようなワークフローで、どこに僕のやりたいことを組み込めるのかがわからない。

予算・人員などの調整と業務分析・システム設計・コーディングを全てこなしているような人は果たしているのか?そんなスーパーマンを見習いたい。

目的なくネットサーフィンしないほうがいい理由

ネットサーフィンとは自己の拡散に近い。ここで言うネットサーフィンとは、記事をしっかり読むのではなく、斜め読みし、ヘッドラインを高速で追うような情報収集をしてんだかしてないんだかわからない状態のことを言う。

ネットサーフィンは、小説を読んで没入する感覚と、およそ真逆の体験である。

電車内でいつものようにはてなブックマークを開いて、どれどれ話題になってそうな面白そうな記事はあるかなと見出しをつらつら眺めているときである。

ハッとなった。

その直後に、気持ち悪さを覚えた。

自分は何をしているんだ?話題の記事を追って、斜め読みをして、コメントを見て、それでどうしようって言うんだ?
他人の備忘録や回想録や日常的な振り返りや所信表明、そういうものを読んで、何が目的だ?

確かに新たな情報に触れることは楽しいときもあるし、刺激的なこともある。
自己を切り売りして別の他人に感情移入して、追体験のようなことをすることで如何にも経験値を高めていそうなことだ。色んな考えに触れることは、ああ、確かに良いことだろうさ。

だけど僕は気付いた。
考えは広がっても、自分の能力にはなっていない。
素晴らしい発想や論理力で、他人を説得させて改心を促すようなことを記事にしているのはよく目にする。
こんな着想でツールを作ってみた、組織作りにこういう貢献をしてみた、カッとなってMAD動画を作ってみた、などなどetc。

でもそんなことを電車内で体験したところで、自分がツールを作れるようになるわけでもなく、組織作りを出来るようになるわけでもなく、動画を作れるようになるわけでもない。

ネットサーフィンは、能力の向上にはまったく寄与しない。

そして何より、冒頭で自己の拡散と書いたが、平たく言うと集中力を散らかしてる状態を延々続けてるようなものだ。ネットサーフィンに集中しているというのは、逆説的なもので、集中していない状態を継続していることに他ならない。

より深くネットサーフィンに没頭することで、自分が曖昧になるのを感じ、他人をより近くに感じることが出来る反面、他人を通して見た自分が惨めで憐れなものに思えてくる。

ネットサーフィンはインプットですらない。
現実逃避の手段にしてもお粗末すぎる。
拾い上げた情報を咀嚼する暇もなく捨てるような行為には、なんら意味がない。

これなら、漫画でも読んでるほうが何百倍もマシだ。

もっと、自分にフォーカスしよう。

社長席の椅子取りゲーム

「日本の技術は負けていない」という思考停止は国を衰退させる : IT速報

確かに、社長席の椅子取りゲームってのはなかなか言い得て妙だ。

出世欲のあるサラリーマンの場合、最終的なゴールは役員であるのがまあ大多数じゃないだろうか。
実はそこに、社会としての脆弱性がある。

これに類似する構図を、僕は過去に見てきた。
受験戦争である。

中学高校と受験勉強をした目的は、より良い高校へ、より良い大学へと進学することだった。
しかして、皆がそう言う方向へ向かうと、必ず、目的を達成したあとの解放感、並びに虚無感を想像せざるを得ないこととなり、事前にそれを察知した場合、目的を達成することそれ自体の意義が問われる事態となる。

おかげさまで、目的を見失ったり、あるいはただの勝負事に疲れた若者たちは学力低下などと騒がれてる状態である。
(個人的には、学力低下じゃなくて教養の不足だと思ってるけどね)

さて、同じことが社会人になっても言える。
会社に入った時点で、なんの専門性も持たないヒヨッコとして扱われる。

まずスタート地点が、中学高校の一年生の構図と同じなのだ。

大学まで進んで学んだことが、それを推奨してきた社会によって一蹴される。なんだそれは、と思って当然。

真面目な人たちは、なにくそ、と踏ん張り、どうすればのしあがれるか考える。

おや、どうやら、会社のポジションは、年功序列と功績と決まっているらしいな。若者に役員の席を用意するつもりはさらさらないらしい。
つまり、実績を積むしか、大企業の役員の席を頂く術はないようだな。となると…まずやることは…

お行儀よくここまで思考を進めてる時点で、絡め取られている。もう抜け出せないのだ。

さて、この真面目な若者のゴールはどこか?
大企業の役員のポストを取って、どうなる?
給料と社会的地位を築いて、どうなる?

想像には難くない。堅実に、築いてきたものを失敗して崩さないよう腐心するだろう。

優秀なサラリーマンの大多数がこうした野望を抱き、そして役員の席という限られた椅子をとれない事実に直面して行き場を失い、自分の目的を再度問い直さざるを得ない状態で、なにが競争力か、なにが1億総活躍か。

加速した世界で、大企業は速やかに死んでいく。劣化した新陳代謝で、生き長らえられる道理がない。

スピードアップした結果訪れる品質低下問題

  1. 業務がスピードアップする
  2. 査閲、承認のプロセスがボトルネックになる
  3. 時間をかけて精査することが疎かになる
  4. 60点のものでも承認されてしまう

上司に何かの問題点を報告し、対策のためには仕組みが必要と言う結論になる。
が、じっくり考える時間がないので、とりあえずというアイデアを実行する。
周知徹底や学習習熟する時間もあまりないので、もちろんうまくいかない。

今現在、こういうループにハマっているから辛い。

短時間でいろんな人に承認してもらわなきゃいけない状況は、間違いなくいろんな品質を犠牲にする。