RPAの行き先と、結果分類される意味
飛ぶ鳥を落とす勢いでバズってるRPAであるが、その先行きには僕はとても心配を感じている。
自動化は結構なことだが、自動化しようとしている対象について、理路整然と言語化出来んの?って感じ。
例えて言うなら、漢字を正しく書けない人が、「OCRってやつを使えばうまく漢字を読み取ってもらえるんだろ?」と期待しているかのような同質さを感じる。
業務の行間を全て言語化するのは、きっと容易ではない。
それが出来たら、SierによるIT業務効率化はきっと出来てる。
Sierにプログラムを作ってもらって、不具合以外の要因で「これじゃないんだよなあ」と思ったことがあるなら、RPAが想定の結果を出してくれるという期待を裏切られる確率は、より1へ近付いただろうよ。
RPAをうまく利用するには、誰かに正確に理路整然と伝える事が出来る、が前提となる。聞く人に行間を読ませるとか、「ここはいい感じで」とかのニュアンスなどは大敵だ。あなたの価値観は、コンピューターにはつたわらない。
働き方改革の波に乗って一大ビジネスになっているRPAだが、果たしてその向かう先は…?
とはいえ…僕は思うが、RPAをうまく利用出来た・出来なかったという結果分類は、その後の来るべきAI社会への適応可能性を著しく示すものなのではないか…と…
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採用時点での間違ったアプローチ
部下に仕事をしてもらうということ - Anything changed in the decade
僕は上記記事で、部下は部下であると同時に、自発的に行動出来る上司としての役割を求められているのではないかという疑義を持つに至った。
おそらくそれは間違った直感ではない。日本社会の総合職などは特にその傾向が強く、初めは言われたことをやるが、そのうち誰かに指示し、皆を率いていく役割を暗黙的に押しつけられている。そのプロセスは段階を経ない。じわじわと、シームレスに、まるでほんの少しの隙間から入ってくる水漏れのように、誰にも言われずに侵食してくる。
言われたことをちゃんとそつなくやっていたら、いつの間にかそれだけでは評価されなくなっていた、というわけだ。
実務者と管理者には大きな違いがあるという。実務者として有能だった人が、管理者としては有能ではない、といった類いの話は枚挙に暇がない上、ピーターの法則などとしても喧伝されている。
日本社会のキャリアパスにおいて、実務者の次は管理者なのだから、ピーターの法則によって無能な管理者が多くなることは避けられない。
さて、僕は、こう思う。
自発的な人間には自身で判断/行動出来る裁量を与え、自発的でない人間には誰かの指示で行動してもらう。それが適材適所であると。
自発的な性格でない人に自発的になってもらうエネルギーよりは、初めから自発的な性格の人を雇う方がエネルギーは少ない。
畢竟、元とは違う性格に変貌するのは、成長ではなく、もはや洗脳である。
十把一絡げに新卒採用し、そこから人材育成と称して性格改造を行い出世街道のレースに皆を乗せるよりかは、
リーダーとしての資質を持つような人材を面接で見極め、最初から裁量を与えて人を率いてもらうほうが、ステップとしては合理的だ。
そしてフォーカスは採用面接に移る。
「リーダーがいない!」「リーダーではなく有能な実務担当者がいない!」などと、固有の性格を持つ人材の不足を嘆いている組織は、人の性格を変えることに失敗したのかも知れないが、それは最も難易度の高いことである。つまり、採用から始まって人材の活躍というプロセスの中に、「成長」ではなく「性格の変質」が含まれているとき、初めから間違えているわけである。アインシュタイン曰わく、「人の性格を変えることは、原子の性質を変えることと同じくらい難しい。」。
だから、そう、結局僕が悩んでいた問題は、「部下が育たない」ではなく、「人の性格を変えられない」というものであり、それは無理だよという結論だ。
しかしそう考えると、「面接の必勝法!」みたいなノウハウは、クソの役に立つどころか企業組織にとって有害だな。自発的でない人間が、面接で自発的かのように見せるノウハウを駆使した先にあるのは…?そう、悲劇だ。こんなはずじゃなかった、自分ではない自分が求められる。あいつは面接でウソをついていた。しかし解雇をすることも出来ない。
そうして歪みは大きくなる。大きな歪みが多くなると、組織は変質する。変質した組織が多くなると、社会がおかしくなる。
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部下に仕事をしてもらうということ
言うまでもなく、勤勉/怠惰と有能/無能の有名なマトリクスは、以下の組み合わせで成り立っている。
- 怠惰で有能な人
- 勤勉で有能な人
- 怠惰な無能な人
- 勤勉な無能な人
僕が部下として扱える人間は今のところ5人いる。
その5人を分類する前に、それぞれの定義をはっきりしておきたい。でないと、感情的な分類になってしまう。
まず、勤勉というのを、「自主的に仕事をする」ことと定義する。怠惰はその逆、「言われたことしかしない」。
次に、有能を「仕事を定時で終わらせて帰る」または「やること/やらないことを切り分けることが出来、定時内で集中して終わらせる」とする。
となると無能は「仕事が定時で終わらない」または「優先度/緊急度が自分で定義出来ず、無駄に過ごす時間が多い」となる。
この定義で行くと、僕の部下は、
- 怠惰で有能が4人
- 勤勉で有能が1人
という分類になる。
つまり、品質や長期的・戦略的な成果や過程はともかくとして、定時で上がる部下がほとんどだ。
翻って、上司を分類してみよう。
厳密に上司でなくとも、何らかの形でレポートラインにいる人を上司とすると、僕には上司が5人いる。
その分類は、
- 勤勉で有能が2人
- 勤勉で無能が2人
- 怠惰で有能が1人
となる。
端的に言えば、僕が困ってることは
- 仕事全体が長期的展望に欠けている
- 有り余る仕事量に関わらず、部下が定時で帰る
部下に仕事を振るのは上司の仕事だし、それがうまくいかないのは上司の問題である。仕事を振られた方には責任はない。
ここまで書いていて、自分の中での結論が出てしまった。
部下に、部下であること以上を求めてしまっているから、うまくいかないのだ。
部下もいつかは立場が逆転し、仕事を振る側へと変化する。
ここの変化は、怠惰から勤勉への変化である。
この変化を求めているのだ。給料も変わらないのに。まるで夏が終われば秋が来るかのように自然なものとして、皆の意識にある。
これは驚くべきことだと思う。暗黙的なキャリアパス。
部下の立場からして、「給料が変わらないなら責任を増やす理由はない」と言う判断をすれば、上司側の「部下を育てる」と言う意図、つまり上記の暗黙的キャリアパスのレールの上に載せるということが不可能になるのだ。
現在の日本のキャリアパスにあっては、上司は、部下を部下として扱うと同時に、部下を上司としてあってほしいというダブルスタンダードを抱かざるを得ない。それが如何に難易度の高いことか。それが如何に多様性を封じているか。
今の若い連中は、少なくとも「長く働くことが美徳」だとか、「滅私奉公すべし」などとは考えない。
仕事を振る側の人間は、振る先の人間がレールに載っているという前提を捨てるべきではないだろうか?
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無用の長物という判断と妥協の分水嶺
たとえ今の状態でアウディを持っていても、息子の幼稚園の送り迎えにも使えない。
何故なら、息子の通う幼稚園は駐車場がないし、しっかりとした理由がなければ車を使うことは禁止されているからだ。
とはいえ、大事なのは、アウディそのものではなく、アウディを持てる状態と、それを惜しみなく使える状態である。
従って、今の僕にはアウディなど無用の長物である。
もし今の僕の思考でアウディを買える状態にあったとしても、アウディを買う決断をするだろうか?
答えが何かと理由をつけて「NO」とする場合、それはやはり、社会的に車を持つことがステータス以外の価値を持たないと言う結論になるのではないか?
僕は高級車を持つことに、そこまで憧れは感じない。
仮にアウディを買える状態にあったとして、その時に、今手を出してない「株などを買うか?」という質問に対しては、「YES」になるんじゃないかと思う。
ただ、この「仮定した未来における質疑応答」は、今の状態、今の思考をベースにした、思考実験のため、あまりアテにならない。
人は状況によって思考が変わる。
ただ、僕の中には厳然とした真理があり、どのような状況にあっても、それは崩れることはないだろう。
諺にある通り、「起きて半畳、寝て一畳」「天下取っても二合半」。
いくつもの別荘を持っていても、人間は偏在出来ないので、1度に利用できる家は必ず一つだ。
それって、行く先々でホテルに泊まることと本質的な違いがあるか?
いくつもの車を持っていても、人が運転する今の時代である限り、一度に運転出来るのは1台だけだ。
行く場所によって乗る車を分ける必要性があるか?
身の丈を知り、多くを望まない。自分に出来ることには限りがあるけれども、その中で何をなすべきかは、自分自身で決定すれば良い。
唯我足るを知る。
だがしかし、これが自己肯定の末の諦観から来る負け惜しみであることを、僕は自身でどうやって否定できるだろうか?
真理だと確信していたことが、実は自分の妥協の産物だと…どうやって僕は知ることが出来るだろうか…?
言葉に出来ない理屈は存在するか?
文章は言葉は組み合わせ。
理屈は言葉の裏に潜むか?
言葉には出来ない理屈は存在するか?
もし、言葉に出来ない理屈が存在すると仮定した場合、僕自身が考えて納得していることを人に説明したとしても、決して僕自身と同じ得心は得られないことになる。
ヤンの言葉が脳裏をよぎる。
「ユリアン、確かに言葉に出来ないことはある。だけれどそれは、言葉を使い尽くした人が言えることだよ」
裁量労働制の前に導入すべきもの
それは、
信賞必罰
である。
働かない高収入おじさんも、残業代目当てでだらだら居残る従業員も、大した成果も残さずきっちり定時で帰る人も、自主退職を促すような部署への異動も、
すべては、
良き結果に報酬を与えず、堕落に罰を与えないから
である。
頑張ってもボーナスで数万増えるだけ。ダラダラ残業代のほうが多い。
そんな状態で誰が、頑張って早く帰ることのほうが金銭的に得だと判断する?誰が、良き結果を出そうと思う?非常に共産的だよ。
生産性悪くても、ダラダラ残業して金もらえるほうが得に決まってるじゃん。
徹夜しても終わらないくらいの業務量?管理監督者に罰だ。
仕事を終わらすスキルが足りない?病気の勉強をしない医者が藪医者のレッテルを貼られないとでも?罰だ。
ツールを活用してみんなの生産性をあげました!よろしい、ご褒美だ。
信賞必罰の仕組みが正しく運用されているだけで、自然と裁量労働制云々ではなく、労働問題の歪みは解消されるのだ。
「君は明日から来なくていい。会社の方針に従わない従業員は必要ない」
ここまで極端でなくてもいいが、実際問題、現実に起こっていることは
「君は会社の方針に従っていないが、解雇するのは難しいし、けど君に居残ってもらうのは他の者に示しがつかないから、別の仕事をしてもらうよ。ちょっとボーナスは減らして査定も悪くするけど、君にも家族や生活があるもんね」
こんな感じだろう。誰も損も得もしない優しい社会だね。結果がこんな感じなら、そりゃあ従業員も会社をナメるよ。だってどんだけお荷物になっても、明日食う飯には困らないんだもの。必要なのは能力じゃない。鈍感な精神と、忍耐力だ。働かない高収入おじさんも、相当な悪さをしない限り逃げ切り確定なら、そりゃあ挑戦なんてしないほうがいい。ましてや、責任の範囲も仕事の範囲も何もかも曖昧な日本社会だ。曖昧なまま部下へ仕事を投げてやっつけてもらうほうがいいに決まってる。いや、非常に合理的だよ。「なぜ働かない高収入おじさんがいるのか?」なんて質問への回答は簡単だ。それが合理的な生存戦略だからだよ。それを止める仕組みがないからだよ。オセロの角を陣取ったようなもんさ。もうひっくり返せないのさ。
信賞必罰をちゃんと機能させ、会社の利益に貢献しなかった人には然るべき措置を取るだけで、労働環境は劇的に淘汰されるのだ。労働環境が良くなるなんて一言も言わない。色々な経緯を経て、淘汰が行われるだろう。
そう、ようは、健全な淘汰が行われていないだけなのだ。今の日本社会は。だから、澱み、歪む。
人月商売への絶望と無価値感
先日、既存プログラムのアップグレードを実施しなければならないことになり、協力会社へ見積もりを取った。
その見積もり金額は、約200万。
金額の理由は、「この規模のアップグレードを行うには、これこれの作業をして、これこれの確認をする、それだけ動くのには、大体○○人月必要なんです」というものだった。
このアップグレード、ユーザーからしたら見た目にはまったく関係がなく、他システムとの連携の可能性が開けたくらいである。
さて、この200万円、果たして価値はどのようなものだろうか?
投資をするときには、必ず効果を求められる。
はっきり言って、ユーザーからする効果はゼロだ。今後、「あるかも知れない未来のために」の投資であれば、確定していない事柄の数字を並べて、仮想効果を弾き出せるかも知れない。
とすると、金を出す側の200万は、何に対して金を払うのか?
上記の内容だと、単純に「作業者の給料」である。
決して、「そのアップグレードの価値」ではない。ここがポイントだ。
僕はこの現実に、生産的でない現実に、絶望している。
価値に対して金を払うのなら、その仕事をする人はエンジニアと呼べるかも知れない。
だが、作業者の給料に対して金を払うとき、つまり成果物の価値がほぼゼロに近いとき、果たして仕事をしている人はエンジニアだろうか?
価値を生み出すのがエンジニアであり、やらなければならないことに価値を付加するのがエンジニアであると考えるのは高尚だろうか?僕は、そのくらいの気概は必要だと思っている。
なぜなら、「この仕事はこのくらいの金額でさせてください。我々の生きていく給料が必要なので」なんて言いたくないからだ。
当然、「私はこの仕事であなたにこれだけの価値を提案します。あなたがよければ、この金額を投資してみないでしょうか?」と言うほうが格好イイ。
プライドを持つことは、格好つけることだ。
エンジニアは、生み出す価値にプライドを持たなくてはならない。ユーザーは、価値が生み出されてから、はじめてのその価値に気づく。だからエンジニアは、ニーズベースではなく、与えるところから始めなければならない。
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