思考の自由さと表現の狭さと

アメリカで仕事をしていて、非常に重要な会議などは通訳の人に同席してもらってしっかりと話をするんだが、どうしても通訳の人の都合が合わず、自分の児戯に等しい英語で仕事を進めなくちゃならないシーンが多くある。
そこで思うのは、考えを伝えることが出来ないと言うことは、相手にとってみたら考えていないことと同義であるのではないかと言うこと。
日本語で思考し、疑問に思ったことを尋ねる時、日本語から英語への変換でいくつものエラーが重なる。
異なる言語は1対1ではない上に、訳した言葉のイメージも異なる。
両方のイメージを知らない僕にしてみれば、話せば話すほど誤差は広がるのだ。
もちろん、しっかり言葉のキャッチボールを行えば行うほど、お互いの認識は合っていくのだが、異なる言語を持つもの同士で会話をして、お互いに納得の行く落とし所を作ることは決して容易ではない。

「ほう、表現の自由は思想の自由よりも幅が狭いと言うわけですか」と言うのは銀河英雄伝説での言葉だが、一つの言語でもそうなのだから、一つの思想を異なる言語に置き換えた時にはもっともっと幅が狭くなる。
ありていに言えば「言いたいことが言えない」だが、こと英会話に関して言えば、そこに含まれる意味合いはもっと深い。