自然災害と、変わる価値観と、社会インフラの維持について

今、ブラジルに仕事で来ていて、時差ボケを生かして久々に記事を更新している。

僕がブラジルに到着したのが、現地時間9/2だから、その後に、あと猛烈な台風が日本を襲ったと言うことになる。

被害に遭われた方には、心よりお見舞い申し上げます。

僕は台風に遭わなかったが、家族はもちろん、多くの友人も台風に遭った。被害はほぼ無かったことが幸いである。
あとで知るところによると、JRなどの公共交通機関は、事前に運休や間引き運転などの告知を行っていたとか。
これが最初と言うわけではないが、この対応が板についてきた感がある。

この傾向が何を意味するのか、肌で感じ、頭で理解することは、とても有益だと思われる。
少なくとも、この傾向は昔から続く慣習と言うわけではない。最近行われ始めたことだと認識している。
僕が会社に入社した10年前は、台風が直撃すると言っても、特に事前告知も無かったように思う。
10年前、ツイッターはまだ今のようにインフラレベルのSNSになってはいなかったが、インターネットは普及していた。
スマホは出たばかりで、ガラケーを持つ人が大半を占めていた時代。
情報を告知するための情報インフラは整っていたが、それを発信し、利用する側が、まだ追いついていない状態だったと思う。

それから10年。ほとんどの人はスマホを片手に、リアルタイムな情報を簡単に手に入れることが出来るようになった。
裏を返せば、情報を発信する側は、なるべく早く情報を届けなくては、情報を待つ人からすると「役に立たない」と言う烙印を押されてしまうことになる。
従って、インフラに近い部分であればあるほど、より早い情報を発信出来るような、情報戦略を取ることが多くなってきた。

話を戻そう。これが何を意味するのか?

僕の感じることは、「誰も無理をしない社会の到来」だ。
金儲けが美徳とされない、同調圧力の少ない、多様性があり、他人を認め合い、相手の事情を尊重して自分の都合を変更する、と言う、そういう方向に向かってきている。
その反対、つまり金を儲けてナンボ、皆がやってることはお前もやれ、落ちこぼれや出る杭などいらない、他人のことより自分のこと、自分の都合に合わせて他人に動け…そういう、いわゆる「昭和的価値観」は、見事にフィナーレを飾りつつある。

何がそう変えたのか?上記の価値観に疲弊し、家族を失い、孤独を苛まれた人たち、そして情報を発信する武器を持ち、社会的な報復が可能になり、個人個人の意見が発信出来るような情報インフラが整った、現代に生きる一人一人の思いだ。
つまり、情報インフラと言う武器が、情報技術と言う武器が、昔の価値観を壊した。

台風でピザを配達するように強制されたバイトたちも、今は情報インフラを武器にして会社と戦うことが出来る。
それがあればこそ、会社は常に従業員を気遣わねばならない。従業員の安全、暮らしを優先し、「台風なんだから無理しないていいよ、休みな」と言う社会である。
これは何をもたらすか?
自然淘汰だ。
従業員を酷使することでしか利益を産まない会社は、軒並み淘汰される。上記のパラダイムシフトからすれば、当たり前の話だ。

しかし、物事には例外が存在する。
今回の災害級の台風に対し、誰もが「休もう」と思えるのは良いが、それでは社会が保たれない。
台風の被害を抑えるために、危険を承知で社会インフラを支える勇敢な人たちは、本当に誰もが支えてあげないといけない。

電力・水道・ガス・交通・建設、それらの社会インフラが、災害によって甚大な被害が被らないように、一人一人が考えて行動しないといけない。

具体的には、社会インフラの維持に携わる人は、何もない日は人一倍休めること、だ。
よくある話で、トラブルのないサーバの管理者が暇だと思われて別の仕事に回された挙げ句、トラブル時には誰も収拾をつけれなくなった、とかいうあのテの話だ。
有事の際に人一倍、身を粉にして働く必要のある人たちは、有事でない時は人一倍休まないとバランスが取れない。

これからロボティクスの時代が到来するが、上記の「誰も無理をしない社会」の実現に向けて、ロボットがうまく働けるようなインフラ作りも、今後具体的に検討されていくことだろう。

企業がこの先生き残るには

非常に首肯出来る記事。僕も白書を読んで、似た感想を抱いた。

危機感を煽る、程度ではたぶんどうにもならないレベルまで来ていると感じる。
何故かと言うと、この記事でも言及されている通り、経営者の高齢化と、彼らが築き上げ、得てきたものがITによるものではないものであり、それを捨てることが今までの否定に他ならず、自分の過去を否定してまで生き残るよりは、「自分の出来ることはした上で見事に散りたい」という発想があるから。

僕も最近は、一人の息子の親として、また何人もの部下を独り立ちさせる上司として、未来を作るということを愚考しているのだけれども、未来を作るということは、他の世代に判断を託すということに他ならない。自分の判断で人を動かす、のではなく、自分以外の人に判断を委ねる。 

さて、高齢になってきた企業経営者や、その幹部たちは、自分たちよりITに詳しい若者に、会社経営の骨格である部分を、変革させる度量があるだろうか?

僕は一応大企業の末席にいる立場だと思っているが、そこでよく見る光景は、

おじさん「若者よ、チャレンジせよ!良い企画を立ち上げて提案してくれ!」
若者「こんな企画を考えました!ITを駆使した新しい業務改革です!」
おじさん「これをやってどういう効果があるの?費用対効果は?なんでそんなに費用かかるの?これを実施して本当に効果があるかどうかの裏付けは?現場はたぶん反対すると思うけどなあ、ちゃんと裏取りした?」
若者「…」

典型的な、若者のやる気を削ぐやり方である。

リスクとは、無駄金になることを承知で企画を実行することでは?

成功することを前提として企画を立ち上げ、成功を前提として計画し、それらをもって稟議を通す、というプロセスが、いわば失敗を内包した企画を通さないそのプロセスが、社内の取り組みからモチベーションを奪っているのではないか、と思う。

だから、高齢化した経営者たちが、失敗プロジェクトを企画時点から容認することが出来るか、というシンプルな課題が、企業の分け目であると僕は考える。

「月平均は13万」「一般社員はバイトした方がいいレベル」いくら働いても手取りが上がらない、生活もままならない労働者たち – キャリコネニュース

雇用の流動性、というと、もうちょっと前向きなニュアンスで捉えられるイメージがあるけど、こういう後ろ向きな面から始まる雇用の流動性ってのもあるのかと思う次第。

現実問題、雇用が硬直化しているとの嘆きもあるが、こうした生活もままならない人たちがどんどん職を変えることで、低賃金で働かせてたブラック企業はどんどん潰れて淘汰されていくという意味では、今は代謝が活発になっている時期なんだろうね。最低賃金の増加や働き方改革は、昭和な働き方価値観への終止符を打つか?


さて、こうした活動が続くとどうなるのか?
仮にこれがムーブメント、あるいはトレンドだとして、その結果として、ほとんどの人の賃金が、生活が成り立つレベルまで向上したと仮定する。

  1. 「もうこの辺で落ち着きたい」という保守的な人が増加し、再び雇用は硬直化し始める
  2. 「転職は人生を切り開く。人生を掴み取るチャンスを増やすためにも、雇用は硬直化してはならない」という価値観が大半を占めるようになり、雇用の流動性が増す。

未来予測はギャンブルである。
僕は大学を辞めるとき、似たような思考実験を行い、そしてその時は勝った。
僕は今回はどうだろうか?どちらへ転んだとしても、僕と僕の家族の人生が安全でいられる道は、一体どちらにあるのだろうか?

過当競争と上がらない賃金

定価1000円で売られている商品があったとする。原価は100円としよう。

生産性向上により、原価を圧縮、原価50円まで下げることが出来た。

ここで、企業が取れる選択肢は2つ。
価格を下げて競争力を高めるか、価格は据え置きで利益向上とするか。

昨今の賃金関係のニュースを追っていると、どうしても競争力向上の方に舵を取り続けているような気がしてならない。
競合他社より1円でも安く。それが唯一の生き残る道だ、と言わんばかりに。

賃金を上げるためには、後者の選択肢しかない、と思う。
そして、今の時代、生産性向上のためのツールや手法は溢れているにも関わらず、ここまで日本が生産性を上げることが出来ない理由は、誰しも、従業員への還元がないことが諦めながらわかっているからではないか?

少なくとも僕はそうだ。自分の生産性向上ツールの作成や取り組みは、自分の趣味以外の何者でもない。
生産性向上を図って、自分の給料が上がるなんてことはないのだ。
むしろ、生産性向上を図ったら、給料が減る可能性のほうが高い。

過当競争が諸悪の根元、と言ってしまうことも出来る。
交差点ごとに複数あるコンビニなどは、明らかに行き過ぎだろう。
資本主義は密度を高めるものだと思うが、密度が高まりすぎると自壊する。

若者たちの時代

最近、若い人たちを指導したり研修したりすることが多く、自分なりに教育などを考えることが多い。

主語が大きい話にはなるが、最近の20代の人たちに共通して見えるのは、「無駄なことはしたくない」だ。
それが何かと言うと、自分自身の得にならないことはしたくない、ということ。
役割はまっとうするが、自分から役割を取りに行くようなことはしない。

例えば、

「これをやりきると、きっと君の成長になると思うよ」といっても、「だから何?それで給料上がって残業せずに帰れるようになるの?」

例えば、

「プロとして金もらって仕事してるんだから、ちゃんと勉強しながらきっちり品質上げていかないとね」といっても、「それは個々人の問題じゃなくて会社の社員教育の問題ですよね」

そんな感じで、目に見える形なくモチベーションを上げることがとても難しい。

もちろん僕は昇給や査定をする立場ではないから、そういった割とメタなことを言っても、それで彼らが動くわけではない。

本題はここからで、これは僕は悩んだとか困ったとか言う話ではない。

上記の会話は、社員の努力に対する見返りについての話である。
彼らはそれを求めている。だけど、彼らを指導する僕はそれを与えることは出来ない。
これは構造の問題だ。
多くの管理職は、それを個人の資質の問題だとみなすだろう。
だが、僕は時がたてばそうみなす人は少数派になるだろうと思っている。何故なら、それに同意する人が年次と経験を重ね、そうした価値観が中心に来るからだ。
老いた管理職は引退し、働き盛りは一線を引く。ひよっこは前線に出て、一人前になる。

時間は、構造を変化させる。
10年後にメインになるのは、今権力を持つ管理職ではなく、商売の主戦力になる若者たちだ。

つまり、若者たちのモチベーションを上げる方法を模索することこそ、会社が存続する道だと言える。

今までは、終身雇用の名の下に、会社を存続させることこそがモチベーション維持に繋がっていた。

だが、もう時代は変わった。頑張っても目に見えた報いもないなら、会社を変えるだけである。それは競争原理の視点からはとても自然である。

若者たちは、成果と報酬の目に見えた連動を求めている。
やりたいことはやりたくないし、やりたいことで楽をしたい。

価値を持つのは、「やりたくない仕事をする人」と、「最小の労力で最大の成果を生み出す人」。
その価値を持つ人材に、きちんと報酬を与えることこそ、モチベーションが維持される条件だと愚考する。

そうしたことが制度として稼働するためには、まずは「やるべき仕事とそうでない仕事は何か?」「終わらせる仕事とそうでない仕事は何か?」ということを徹底的に考えなきゃならない。

生産性がいつまでも上がらないのは、ここの議論をしないからだと個人的には考えている。
だから、仕事の定義や成果やゴールの明文化を始めたときが、変化の時だ。

若者たちよ、恐れるな。君たちが頑張らないことで、会社が儲からないことで困るのは、老い先短い人たちばかりだ。君らの人生が、年寄りに依存してるわけじゃない。逆だ。年寄りの人生が、若者に依存してるんだ。人生を賭けた持久戦を持ちかければ、100パーセント勝てる戦いだ。だがそれには持久戦を生き延びるだけの戦略がいる。考えるんだ。考えれば勝てる。必ず。

効率のよい働き方

効率、とは何だろうか?

 

決められた仕事を如何に短い時間で終えることだろうか?

 

如何に短時間で、多くの売上を稼ぐかだろうか。

 

効率的、というのは、

労力をかけずに目的を達成する

ことである。

 

ならば、僕らサラリーマンにとっての、働く目的とはなんだろうか?

僕らは、生計を立てるために金を稼ぐことが目的である。

ならば、どうすれば、労力をかけずに金を稼げるか?

 

それは、ダラダラと残業することである。

 

前提として

  • 残業代が出る
  • 自分の頑張りによって発生した会社の利益が個人の給料に反映されない

という点がある。

 

しかし、これを満たしている場合、働く目的に対して最も効率が良いのは、なるべく働かないことであることは明白である。

 

働かないことで会社が傾く?それはそうだろう。当たり前の話だ。

だけど、頑張って身を粉にして働いて会社の利益が計上されても社員に還元されないのであれば、頑張って働くことは、生計を立てる目的に対してどういう位置を占めるだろうか?

 

当然、生計を立てる上で会社には維持してもらわないと困る。だが、それと社員の無償の頑張りに甘えることは、別問題である。

会社が維持したのは社員の頑張りのおかげ、なのであれば、還元しない理由はどこにあるのか。

 

言葉の持つ威力

成功者はゆっくりと歩く。何故なら、余裕を持つことを意識しているが故に、人生や器にも余裕が云々

成功者は急いで歩く。何故なら、時間を無駄に姿勢こそが他と違いを作る唯一の方法だと知っている云々

おわかりの通り、上記は言葉遊びにすぎない。
内容に意味はなく、適当に、矛盾しない程度に単語を並べたにすぎない。

嘘をついているわけではない。嘘は良くない。嘘とは、事実と異なることを言うことに他ならない。ならば上記
は嘘ではない。

しかし大事なことは、こんな意味のない言説にも、時々は人を動かすことが出来るという事実である。
また、こういう言葉を適切に、相手と場面を選んで慎重に使うことで、人間関係を非常にうまく構築できることがあるという点もまた忘れてはならない。

相手に迎合すべきときは、相手が喜ぶ言葉を選べばいい。
それが自分の本心と一致していたなら、おめでとう、君は同志を発見したね。

言葉は武器になる。あらゆる意味でそうだ。
だから、言葉は、道具であると認識しなくてはならない。切り傷が癒えることのない刃であると認識しなくてはならない。

本心を言うだけが言葉の使い方ではない。

言葉を組み合わせるだけで、それが表す意味に対して自分がどう思っていても、一度聞いた側からすれば、もう脳裏から離れないのだ。

たとえば、

あなたは…その、言いにくいんですが、ちょっとチャラいですよね

こんな何気ない一言でもそうだ。
相手がどう思っていても、聞いてしまったら最後、頭から離れない。

これが自分の意見でないという意思さえハッキリしていれば、この言葉を出すことは、自分で状況を変えることが出来ることを意味する。

相手に言葉が届いたとき、状況は変わり始めている。
逆に、状況を変えたければ、言葉を出すのだ。

強い言葉は聞いた者を変質させる。それが例え自分自身であろうと。
だから注意しなければならない。

自分自身から出た言葉は、自分の本心であると錯覚しがちだ。
だが、「言葉はただの道具に過ぎない」としっかりと認識し、言葉に惑わされない強い心を持つことで、周囲を変質させる力を持つようになれる。

その後、言葉を操れるようになったあとに来るのは、「自分の本心はどこにあるんだろう?」という自己喪失だ。

とても踊りの上手なムカデさんがいました。
カエルさんは、踊りを教えてもらおうと尋ねました。
『ムカデさん、なんで君はそんなにうまく踊れるんだい?
最初のステップで、上から80本目の足を前に出して、そのすぐあとに下から20本目の足をひっこめていることがコツなのかい?』
そう聞かれたムカデは、もう踊れなくなりました。


自分すら意識していなかったことを、強制的に意識させられたとき、人はもう元に戻れなくなる。これは大変怖いことだ。
だから言葉は使い方に注意が必要だ。何度でも言う。

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙