戦略

戦略というのは、いわば「ハメ」である。
そこに落ちた瞬間、何をどうしようとも突破口が開けない。
格ゲーで覚えのある人も多いだろう。
ハメ技に一度ハマってしまうと、もうそこで終わりだ。
つまり、ハメ技を知っているプレイヤーは、以下に相手に知られずに、ハメ技を繰り出せる状況が作れるかが、戦略のポイントになる。
そのハメ技を知っている相手プレイヤーは、如何にしてそのハメ技を食らわないかを常に気にしながら闘わなければならない。
つまり、「こうすれば勝ち」と言う状況が見えているかどうかが、戦術を決定する。

会社にいると、この辺の戦略的思考ってのが意外と生き残るには大事だと感じる。

教育と多様性と

先日友人と飲みながら話をしていて、子供の教育のことについて議論していた。


小学校、中学校、高校の教師をしたことのある友人は、子供の環境が悪ければ、非行に走る可能性が高くなると論じていた。

そしてその環境は、ある程度は金で解決できると。例えば私学だ。


僕は環境について否定はしないが、非行に走るかどうかは親が植え付けた観念が重要ではないかと思った。

例えば、僕の周りには不良はたくさんいた。程度にバラつきはあるが。

それでも僕は非行を行わなかった。誘われることもあったと思うが、行かなかった。

これは僕が環境に左右されなかった証拠と言える。

では何故、非行の誘いを断ることが出来たのか?


親から受けていた教育が僕を留まらせたか?


否、今だからわかるが、僕は非行に走ることで、非行をしない仲の良い友達を失うことが怖かったんじゃないかと思う。

自分でいうのもなんだが、友人のバリエーションは多かった自負がある。割と分け隔てなく誰とでも接していたほうだ。

だから友人グループというものがいつでも複数あった。

今日はあのグループ、明日はあのグループと遊ぶ、と言ったように。
学外、学内、後輩、先輩問わずだ。


だから、非行に走ることで、多くの友達関係が壊れてしまう可能性を、子供ながらにわかっていたのかも知れない。


環境によって非行に走る可能性がピークを迎えるのは、思春期の中学生くらいだと思う。

その頃に、非行に走る「時間」があり、非行に走っても「直面するリスク」がなければ、非行に走る確率はグンと上がるのかも知れない。

僕は仲の良い(でも深い付き合いはしない)不良の友人がいたが、中学卒業まもなく、バイク事故で死んでしまった。このことは息子にもしっかり伝えていきたい。非行をするということは、人生をふいにするリスクがあること。


多様な人間関係を築くということは、人間を一方面のみに特化させることを防ぐ効果があるのかも知れない。

AIによるゲームの非同一化

もしテレビゲームにAIが本格的に入り込んできた場合、ユーザーのステータス、プレイしてきた歴史、その他様々なパラメーターにより、例え同じゲームをプレイしようとも、ユーザーによって、あるいは同じユーザーであってもその時々によって、NPCが異なる振る舞いをするのではないか?

ある時はNPCから石を投げられ、ある時はNPCから感謝の印をもらう。

「昨日、あのNPCが敵に寝返っちゃってさー」
「え、うちは味方になってくれたよ」
同じゲームで異なる体験。
それはレビュー可能か?

NPCがゲームを進める上でのフラグとしての存在に深みが増す。
NPCそれ自体も同じゲームをプレイするというような感覚にすら陥るとき、ゲームを操っている自分のキャラクターと、NPCの違いというのは何なのだろうか。

金持ち父さん貧乏父さん

金持ち父さん貧乏父さん

金持ち父さん貧乏父さん

読んだ。非常に感銘を受けた。
投資と言うより、如何に資産形成について考えるか。
今の状態で単純に株式投資を始めることは、単なるギャンブルでしかない。僕に十分な知識がないからだ。
僕はもっと勉強しなきゃならない。会計、金融、税金のことについて。
得意分野を複数持つことがビジネス、個人における競争力の源泉になるのは実感済み。
深く考えるためには、ある程度の幅の広さも必要不可欠なのだ。

働き方改革の本質

ふと頭によぎった。

働き方改革とは何なのか?つい、その目的などを色々考えてしまうが、本当は目的は本質ではないのではないか?

働き方改革とは、それによって得られるものは副次的なものであり、その本質は「手段の多様化」であると思う。

IT技術とセットで語られることが多いのも、旧来の手段から脱却出来る可能性があるからだ。

その視点を前提すると、うまくいかないことの理由が腑に落ちる。

働き方改革の目的を「残業削減」に絞ってしまうと、「如何にして効率よく仕事を捌くか」という方法論に行き着いてしまう。

目的を「利益率向上」に絞ると、「生産性向上」という、指標ありきの分析へと目が移る。

そういう目的、成果を働き方改革に求めてしまうと、そこからブレイクダウンされる方法はぶれてしまう。

目的そのものを「多様な手段を試すこと」という手段それ自体にすると、今度は「どうすれば試すことを試せるか」という発想になり、それは手段ではなく制度でないと解決できない帰結になる。

ここで、働き方改革の目的を「制度を変えること」と過程をすっ飛ばしてしまうと、それに対しての手段が検討され、制度を変えることによる効果などが検討され、効果ありきの制度が生まれ、なんだかよくわからないことになる。

そう、本質は「手段の多様化」だ。

手段の変質でも手段の変更でもない。手段を増やすこと。それこそが、働き方改革の本質である。

手段を増やすことは、目的を設定しないことが肝要だ。

目的を設定すると、必ずそれに対する達成手段が、科学的アプローチによって検討される。

そうではなく、手段そのものの検討、試行、適用といったプロセスは、研究と許容の文化だ。そう、文化なんだ。企業文化の変質。なるほど、そう考えると、働き方改革も、悪くない。

moto 5g plusに買い換えて

moto g5 plusに買い換えてから2週間が経とうとしている。
2年半使用したXperiaZ3Cは、最後にはバッテリーが半日も持たず、全てのアプリの動作は重く、時には起動すらしないものまで出てきた結末だった。家族や友人とのラインにも影響が出てきたので、すぐに買い換えることにしたわけだ。元々は冬のボーナスまで待とうと考えていたが、日に日にストレスフルな動作になっていくため、我慢が出来なかった。

moto g5 plusは良い端末だ。カスタマイズされていない素のAndroidだし、ハードウエアのスペックも申し分ない。
以前、Lenovoに買収される前のMOTOROLA RAZR M 201M を使用していて、あれも良い端末だったが、末期には熱暴走を起こして3時間くらいでバッテリーがなくなっていた。

今のバッテリー性能は昔よりは良いはず。今回は前より長く使えることを期待する。
ところで、今回バッテリーの性能について気付いたことがある。
XperiaZ3Cの時は、フル充電時からあまり使わなければ、100%の状態が比較的長く続いていた。
しかし今回のmoto g5 plusは、90%までは割と到達が早い。
そしてそこから減っていき、70%を切ったあたりからの減りが遅く感じる。ちゃんとした計測をしたわけではないので体感ではあるが、そう感じる。
とは言え、平日仕事をしている時だと、通勤中に多少使用したところで、1日50%使うかどうかってくらいだ。寝るときに充電しなくても十分使えそうだ。

ゴリラガラスの上を滑る指の滑らかさが好きで、フィルムは買っていない。フィルムをつけなくても、汚れが気にならない。

唯一の問題は、Freetelのsimと相性が良くないのか、時々通信が悪くなることだ。Xperiaの時はそこまで感じなかったが…。

次世代技術のボトルネックはビジネスになる

Tesla’s Model 3 Is Here, and It's Much More Than an Electric Car | WIRED

こういう記事を見るといつも頭によぎるのは、ゴールドラッシュのこと。

ゴールドラッシュで本当に儲けたのは、ゴールドを見つけた人たちではなく、その人たちへショベルを売った人たちだ

という格言。
未来の内燃機関でない自動車にも同じことが言える。

新しいバッテリー?新しい充電方法?新しい発電方式?

未来の自動車が正しく稼働するための前提を見いだす。
そこにビジネスがある。

友人と議論していた内容を思い出す。

未来の自動車が世に出るのは結構なことだが、その技術が他に転用されたり、あるいはその未来の自動車がより有効に活用されるところにも目を向けないといけない。

例えばロボティクスに対する技術転用。
あるいは、未来の自動車がうまく動作するだけの環境整備、つまり都市開発計画。
高速道路は都市インフラとして開始された。車がなきゃ出来なかったことだ。今は高速道路のない長距離移動なんて考えたくもない。

では次はどうなる?
高速道路ではない何か大掛かりな開発が、未来の自動車向けに始まる可能性があるのではないか?
未来の自動車が、最大の効率で動き、人間を便利にするような、大きな開発が。