教育と多様性と
先日友人と飲みながら話をしていて、子供の教育のことについて議論していた。
小学校、中学校、高校の教師をしたことのある友人は、子供の環境が悪ければ、非行に走る可能性が高くなると論じていた。
そしてその環境は、ある程度は金で解決できると。例えば私学だ。
僕は環境について否定はしないが、非行に走るかどうかは親が植え付けた観念が重要ではないかと思った。
例えば、僕の周りには不良はたくさんいた。程度にバラつきはあるが。
それでも僕は非行を行わなかった。誘われることもあったと思うが、行かなかった。
これは僕が環境に左右されなかった証拠と言える。
では何故、非行の誘いを断ることが出来たのか?
親から受けていた教育が僕を留まらせたか?
否、今だからわかるが、僕は非行に走ることで、非行をしない仲の良い友達を失うことが怖かったんじゃないかと思う。
自分でいうのもなんだが、友人のバリエーションは多かった自負がある。割と分け隔てなく誰とでも接していたほうだ。
だから友人グループというものがいつでも複数あった。
今日はあのグループ、明日はあのグループと遊ぶ、と言ったように。
学外、学内、後輩、先輩問わずだ。
だから、非行に走ることで、多くの友達関係が壊れてしまう可能性を、子供ながらにわかっていたのかも知れない。
環境によって非行に走る可能性がピークを迎えるのは、思春期の中学生くらいだと思う。
その頃に、非行に走る「時間」があり、非行に走っても「直面するリスク」がなければ、非行に走る確率はグンと上がるのかも知れない。
僕は仲の良い(でも深い付き合いはしない)不良の友人がいたが、中学卒業まもなく、バイク事故で死んでしまった。このことは息子にもしっかり伝えていきたい。非行をするということは、人生をふいにするリスクがあること。
多様な人間関係を築くということは、人間を一方面のみに特化させることを防ぐ効果があるのかも知れない。