2023年

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逃げ出せる人は逃げ出す状況だろうし、それは認めるが、大半の人はなかなかそうはいかない。

このままダラダラと衰退を続けるか、それとも一気奮発して変化を取るか、まあ日本史的に見てもどちらかだろう。
東京オリンピック後が、変化するなら最大の時機かなあとなんとなく思う。

人口動態は、多少移民を入れたところで何も変わらないと思う。
結局のところ、人口動態の最大の問題は、逆ピラミッドになっている高齢者を、如何にして養うかと言うことなのだから。
平等に取り立てる以上、所得の多さに比例する。そして所得の多さは、年齢に比例する。
所得の多さと年齢・性別を無関係にすることが先ず先決か?いや、どうだろう。それでは、「勝てる者だけが勝つ」だけになる。
皆が仲良く暮らせる社会と、皆が楽しく勝利出来る社会、と言うのはどうも相容れないように感じる。

いずれにせよ、変化はいつか起こる。ダラダラ衰退を続けた結果、どこかの国の属国になるか、それとも今までの社会を潰す勢いで変化するか。

その時に、出来れば優位な位置にいたいものだ。何しろ家庭がありますから。他人を蹴落としてまで、と言うような意気込みは僕にはないけれど、家族を守るために最善を尽くすと言うくらいの甲斐性はあるつもりだ。
そして今何も出来なくても、2023年くらいには、今聞こえている軋みの結果が何かしら出るのだから、その時までに色んなことを勉強し、生きていけるようにしなくちゃな、と思う。

優秀とは程遠い僕に打てる手

先手必勝とは、戦術にあらず。
戦いが始まってからの先手必勝などによって得られる優位など無きに等しい。後の先を取られて簡単にひっくり返される程度のもの。

先手必勝とは、戦いが始まる前に打つ先手のこと。

自分の思うがままの状況こそが、勝ちが揺るがぬ状況だとすれば、何も起こってないときから自分から手を打ち、何かが起こった時には状況は既に自分の手中、ということが出来るのが、先手必勝の戦略である。

さて、自分はどういう手を打とうか?生き残るために。

僕の今いる会社は、今のところ僕が生きている間くらいは安泰だと思っているが、何か起こらないとは限らない。
起こってから手を打つのではなく、起こる前に手を打っておきたい。

副業、テレワーク。働き方においては、二つの大きな潮流が待ちかまえている。
その時に負担が大きくなるのは、仕事を振る側、管理側だ。成果が明確でなくちゃ成し遂げられない。

目的は収入の増大。ITの末席に位置している以上、これからの見通しは明るい。それでもなお、僕は確固たる安心が欲しい。会社が賃金を上げないという判断をしたとしても、僕の目的が潰えることのないような、手を打ちたい。

専門がさらに細分化していくこれからの時代にあたって、専門的なことは全くわからない人たちへのインターフェースたり得る僕の今の位置はいわゆるコンサルであるため、専門性を磨くことはあまり意味がないように感じる。
特殊な技能もない僕が、優秀なエンジニアの方たちと肩を並べると想像するだけで腰が引ける。
だが、未来予想図を描き、動かせる人を動かし、専門性のある人たちを集め、目標を設定し、IT企業ではない企業に改革をしてもらうという仕事は、割と自分の性にあっているように思う。

そこで僕の取るべき最上の打つ手は、勉強だ。
来るべき時に、周りの優秀な人たちが勉強しだしたときには既に行動に移せることが出来るよう、ノロマな僕は今から勉強をしておかなくちゃいけない。

学問に王道なし。時間は皆平等。それが僕の生存戦略

戦略

戦略というのは、いわば「ハメ」である。
そこに落ちた瞬間、何をどうしようとも突破口が開けない。
格ゲーで覚えのある人も多いだろう。
ハメ技に一度ハマってしまうと、もうそこで終わりだ。
つまり、ハメ技を知っているプレイヤーは、以下に相手に知られずに、ハメ技を繰り出せる状況が作れるかが、戦略のポイントになる。
そのハメ技を知っている相手プレイヤーは、如何にしてそのハメ技を食らわないかを常に気にしながら闘わなければならない。
つまり、「こうすれば勝ち」と言う状況が見えているかどうかが、戦術を決定する。

会社にいると、この辺の戦略的思考ってのが意外と生き残るには大事だと感じる。

教育と多様性と

先日友人と飲みながら話をしていて、子供の教育のことについて議論していた。


小学校、中学校、高校の教師をしたことのある友人は、子供の環境が悪ければ、非行に走る可能性が高くなると論じていた。

そしてその環境は、ある程度は金で解決できると。例えば私学だ。


僕は環境について否定はしないが、非行に走るかどうかは親が植え付けた観念が重要ではないかと思った。

例えば、僕の周りには不良はたくさんいた。程度にバラつきはあるが。

それでも僕は非行を行わなかった。誘われることもあったと思うが、行かなかった。

これは僕が環境に左右されなかった証拠と言える。

では何故、非行の誘いを断ることが出来たのか?


親から受けていた教育が僕を留まらせたか?


否、今だからわかるが、僕は非行に走ることで、非行をしない仲の良い友達を失うことが怖かったんじゃないかと思う。

自分でいうのもなんだが、友人のバリエーションは多かった自負がある。割と分け隔てなく誰とでも接していたほうだ。

だから友人グループというものがいつでも複数あった。

今日はあのグループ、明日はあのグループと遊ぶ、と言ったように。
学外、学内、後輩、先輩問わずだ。


だから、非行に走ることで、多くの友達関係が壊れてしまう可能性を、子供ながらにわかっていたのかも知れない。


環境によって非行に走る可能性がピークを迎えるのは、思春期の中学生くらいだと思う。

その頃に、非行に走る「時間」があり、非行に走っても「直面するリスク」がなければ、非行に走る確率はグンと上がるのかも知れない。

僕は仲の良い(でも深い付き合いはしない)不良の友人がいたが、中学卒業まもなく、バイク事故で死んでしまった。このことは息子にもしっかり伝えていきたい。非行をするということは、人生をふいにするリスクがあること。


多様な人間関係を築くということは、人間を一方面のみに特化させることを防ぐ効果があるのかも知れない。

AIによるゲームの非同一化

もしテレビゲームにAIが本格的に入り込んできた場合、ユーザーのステータス、プレイしてきた歴史、その他様々なパラメーターにより、例え同じゲームをプレイしようとも、ユーザーによって、あるいは同じユーザーであってもその時々によって、NPCが異なる振る舞いをするのではないか?

ある時はNPCから石を投げられ、ある時はNPCから感謝の印をもらう。

「昨日、あのNPCが敵に寝返っちゃってさー」
「え、うちは味方になってくれたよ」
同じゲームで異なる体験。
それはレビュー可能か?

NPCがゲームを進める上でのフラグとしての存在に深みが増す。
NPCそれ自体も同じゲームをプレイするというような感覚にすら陥るとき、ゲームを操っている自分のキャラクターと、NPCの違いというのは何なのだろうか。

金持ち父さん貧乏父さん

金持ち父さん貧乏父さん

金持ち父さん貧乏父さん

読んだ。非常に感銘を受けた。
投資と言うより、如何に資産形成について考えるか。
今の状態で単純に株式投資を始めることは、単なるギャンブルでしかない。僕に十分な知識がないからだ。
僕はもっと勉強しなきゃならない。会計、金融、税金のことについて。
得意分野を複数持つことがビジネス、個人における競争力の源泉になるのは実感済み。
深く考えるためには、ある程度の幅の広さも必要不可欠なのだ。

働き方改革の本質

ふと頭によぎった。

働き方改革とは何なのか?つい、その目的などを色々考えてしまうが、本当は目的は本質ではないのではないか?

働き方改革とは、それによって得られるものは副次的なものであり、その本質は「手段の多様化」であると思う。

IT技術とセットで語られることが多いのも、旧来の手段から脱却出来る可能性があるからだ。

その視点を前提すると、うまくいかないことの理由が腑に落ちる。

働き方改革の目的を「残業削減」に絞ってしまうと、「如何にして効率よく仕事を捌くか」という方法論に行き着いてしまう。

目的を「利益率向上」に絞ると、「生産性向上」という、指標ありきの分析へと目が移る。

そういう目的、成果を働き方改革に求めてしまうと、そこからブレイクダウンされる方法はぶれてしまう。

目的そのものを「多様な手段を試すこと」という手段それ自体にすると、今度は「どうすれば試すことを試せるか」という発想になり、それは手段ではなく制度でないと解決できない帰結になる。

ここで、働き方改革の目的を「制度を変えること」と過程をすっ飛ばしてしまうと、それに対しての手段が検討され、制度を変えることによる効果などが検討され、効果ありきの制度が生まれ、なんだかよくわからないことになる。

そう、本質は「手段の多様化」だ。

手段の変質でも手段の変更でもない。手段を増やすこと。それこそが、働き方改革の本質である。

手段を増やすことは、目的を設定しないことが肝要だ。

目的を設定すると、必ずそれに対する達成手段が、科学的アプローチによって検討される。

そうではなく、手段そのものの検討、試行、適用といったプロセスは、研究と許容の文化だ。そう、文化なんだ。企業文化の変質。なるほど、そう考えると、働き方改革も、悪くない。